【短編集】人魚の島
僕はひとつ深呼吸すると、リリイと同調(シンクロ)するためのコネクターパッドに右の掌(てのひら)を押しつけた。
リリイの内部に構築された仮想現実(バーチャルリアリティ)に、僕はダイヴした。
頬にぬくぬくとした温かい陽射しを感じた。
僕は目をしばたたく。
異星の見慣れない森のなかに僕は立っていた。
蜂蜜色の光の柱が僕の周囲で揺らめいている。振り仰ぐと、濃密な葉むらの隙間に青紫色の空の断片が見え隠れしていた。
そして、僕の目の前にいるのは……。
「ユウ、ひさしぶりだね」
「サクラ……」
僕は目を見開く。二十歳に成長したサクラが、木洩れ日を浴びてひっそりとたたずんでいた。
背中を流れるつややかな黒い髪。濃い琥珀色の瞳。ほっそりとした身体を包みこむ白いワンピース。
ワンピースの袖や裾からのぞく肌は健康的な小麦色で、笑うと口許に八重歯がちらついた。十二年前は僕よりも背が低かったのに、すっかり逆転している。僕を見下ろす瞳の奥の強い光だけは、十二年経っても変わっていなかった。
「……とてもきれいになったね、サクラ」
「ありがとう。ユウはちっとも変わらないのね」
「僕はずっと子供のままだって、そう言ったじゃないか」
サクラはふっと片頬で微笑む。大人の笑い方だな、と思った。そう、彼女はもう八歳の少女じゃないのだ。
「来てくれたんだね、ユウ。絶対に来てくれるって信じていたわ」
「サクラ、きみは……」
「あなたに謝らなくちゃならないことがあるの」
「え?」
サクラは頭を下げる。その姿勢のまま、
「わたし、あなたとの約束を守れなかったわ。ごめんなさい」
僕はとっさに言葉を返せなかった。声をしぼりだすのに数秒間の時間が必要だった。
「……憶えてたんだね、あの約束」
「忘れたりしないよ。大人になっても、忘れなかったわ」
頭を上げたサクラは寂しそうな表情になって、
「生きて、あなたに会いたかったわ、ユウ。本当にごめんなさい。あなたの奥さんになってあげるって約束したのに……」
心の奥底からこみあげてくる熱い想いに口をふさがれて、僕は言葉を失う。本当はこう言ってやりたかった。
違うよ、サクラ。スターチャイルドと結婚なんてできるわけがないと、大人になったきみならわかっているはずだ。約束を守れなかったのは、きみのせいじゃないさ……。
「……もう時間がないわ。わたしが言いたかったのはそれだけよ」
「え? ちょっと待ってよ。僕はまだきみと話を……」
「このわたしは……」
サクラは自分の胸に手を当てて、
「ただのデータよ。オリジナルのわたしはもう死んでるの」
「サクラ、きみが望めば人格シミュレータのデータを転写してクローンをつくりだすことだって……」
サクラは無言で首を振る。僕は胸に冷たい痛みを覚えた。
「わたしは自然主義者(ナチュラリスト)よ。人生は一度だけなの。二度目はないわ。わかって、ユウ」
「サクラ……」
最後に、サクラはにっこりと微笑んだ。僕と約束を交わした八歳の少女が、その笑みの向こうに透けて見えるような気がした。
「さようなら、ユウ。そして、ありがとう……」
仮想現実(バーチャルリアリティ)から抜けだした。
放心したままの僕に、リリイが気遣わしげな口調で声をかける。
「サクラの人格シミュレータが強制消去されたわ。……ユウ、泣いてるの?」
目尻からあふれた粒を指の腹でぬぐう。
僕は、思う。
たとえ人造のモンスターであっても、僕の涙とサクラの涙は、きっと同じ色をしているはずだ、と。