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ネヴァーランド

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僕は、ふと、思った。まさか、メノトが、へレンの母親ということはあるまいな。実の母親なら何もメノトの役をわざわざ演ずる必要はない。だが、モーゼの側室になったからには我が娘に対してさえ、メノトのように対応するのはありうることだ。しかし、皮膚の色が違いすぎる。メノトは浅黒く、ヘレンは白っ子に近い。では、モーゼの母親である可能性はどうか。何故今まで思いつかなかったのだろう。皮膚の色も体型もそっくりだ。大いにありうる。
ヘレンは、メノトが、客間を通り、玄関を出るのを、確かめたらしい。ベータを左の肩によいこらさとばかりに担ぎ上げ、小走りに奥の間にとって返し、何かを引っ掴んで戻ってくると、それを僕に投げてよこした。少しだけ水を含んだスポンジだった。乳首から無理やり引き離されて泣き喚くベータを肩から下ろし、右手で乳房をつかむと、ベータの口にねじこんだ。ベータはのけぞりながら、口封じのための雑巾でも突っ込まれたかのように呻いた。だが、たちまち活発な吸引音が聞こえてきた。
「まもなくトネリたちがやってくるわ」
僕はすぐさま四つん這いになり、ヘレンに尻を向けてその床を隠し、手で受け止めたスポンジで、ふき取り始めた。
「私、頭が破裂しそう。今まで眠っていたたくさんのこびとが目を覚まして、ちょうどあの時みたいに、怒鳴ったり歓声を上げたりしながら、広い体育館を走り回っている」
空間の拡がりではなく、時間軸の延びについて、2Dが3Dになっただけの変化ではない。ついさっきまでの過去があるだけでその向こうは霞に隠れていたのに、一挙に霞が晴れ、僕の部屋でのあの時あのことを最初の一押しにしたドミノ倒しが、今に向けてと過去に向けて、一挙に脳の中で始まったのだ。過去へ向う想起は、水平線であるヘレン自身の出生の瞬間に、今に向う想起は、仲間たちと形成した帝国の現在へ、ひょっとしてこの僕へ、戦慄を伴って突進していることだろう。ヘレンの、精神のこの恐慌を、出産する妻に付き添う夫のように、できるかぎり共感したいが、無理だろうか。
「すまない。僕のせいだ。すぐに慣れるはずなんだが。それぞれの記憶がつながっていって、お互いどうしを静まらせる。意識的にどうこうする必要はない。自動的にそうなるから、しばらく我慢してくれ。我慢してください」
眼の下、スポンジの縁に、寒天状の粒がくっついているのを見つけ、見とれ、しばし手が止む。
「謝らなくていいの。とっても面白い体験だから。ずーっと向こうまで見渡せるのね。すごーい。そのまた向こうの向こうの向こう、私が生まれる前はどうだったのかしら」
「それはわからん。僕がものごころつくと、父がいて、施設ニッポンがあった。生まれた時の前後も断片的に覚えているけど。何か想像を絶することが起きたんだろうね」
「最初の最初の破裂みたいなもの?」
スポンジを裏返しにした。裏面に直接手を当てるのには躊躇し、二つ折りにした。
「うーん、宇宙にとってのそれはともかく、僕らにとっては、ビッグバンだったかもしれない」
「あの場所は、あなたのお父さまである元祖魔法使いが、煙幕の中からつかみ出したのかもしれないなあ。私たちが、隣りあわせで、あそこに生まれて、隣りあわせで、あそこに住んでたんだなんて」
僕は、ふらっとなりかけたが、耐えた。耐えながら、思った。施設ニッポンこそが、ネヴァーランドであったのかもしれん。
「何か、壊滅的なこと、終わりの始まりとでも言うべきことが起きて、その断片が、いくつかの施設として生き残ったのかな。しかし、もう一つ考えられることがある」「何?」
「何も起こらなかった。ビッグバンはなかった。宇宙についてもその疑いがある」
「えっ? 想像を絶するようなことが起きなかったら、あんな場所はありえなかったでしょうに」
「僕達が、僕達だけが、想像を絶する存在である可能性がある。当事者が自分で気づくのは難しいけど。僕達以外は、別の、ホントーの世界に属しているのかもしれない」
「何言ってんの、私たちはこの世界に属しているじゃない。当たり前でしょうに」
「当たり前を疑いなさいよ。出来ることなら、僕は一切の当たり前から抜け出したいね。ついでに自分からも。当たり前のコトやモノが、一番不可思議だ」
「そんなこと、とてもじゃないけど、想像できないわ。例えば私のどこが想像を絶するの」
絶するとは言わないまでも充分に想像以上だったとは、口に出さなかった。
拭き終わった。恥の塊りである丸めたスポンジを、両手で後ろ手に持って立ち上がると、ヘレンを押すようにして客間へ移る。
「十三夜の谷まで、一緒に行くよ」
ヘレンの、一挙に記憶がよみがえった脳が落ち着くまで、そばにいなければならない。気丈にしているが、声が震えている。こんな目にあわせてしまった。僕のせいだ。しかし、僕にだって今や確信がある。確信もまた遅れてきた。あの時、好奇心と性欲で、満開の花の前のミツバチのように興奮していた僕は、無我夢中のガキだったが、今は違う、と思う。
「馬鹿なこと言わないでね。第一、メノトが許すはずがないでしょ」
「話を続けていくほうがいいと思う」
「大丈夫。私を落ち着かせてくれるものは、いっぱいあるから」
ヘレンは壁と天井をぐるりと見回す。僕は、眼の往った先ではなく、でかい眼自体を見ている。
「月、流星群、蝉、吼える獣、香る森と川、足の裏に触る岩、滑る砂。渋味のチャーと硬めのマンゴスチンを持っていくわ。みんな、私のお気に入りよ」
「僕に、役目を与えてくれ。そうだ、僕は、ベータの教育係だった」
「おや、勝手に決めちゃってる」
「眠りから覚めたら、早速次のレッスンを」
「いちといっぱいで、今日の授業は終わりだったんじゃないの?」
「赤ん坊にとっては、目が醒めた時が、新しい日の朝だよ」
少なくとも僕はそう思っていた。
「父親ぶらないで」
「じゃ、荷物運びの奴隷ということで。摘んだスミレを担ぐ役」
壁のスミレは、一斉に、うなだれていた。首を左右に振って、さっきヘレンがしたように顎で指し示すと、ヘレンもちらりと周りを見たが。
「いいから! ひとりでやってけるから。私は、目が覚めて、喜んでんだからね。おかげさまでした。だけど、邪魔しないでよ。いろんな計画がむらむら沸いてきてるところなのっ!」
ヘレンの顔は紅潮し、眼は据わっていた。抱きつきたくなるのを我慢する。
さらに押し問答を続けた末に、勝手にしな、と言われた。
モーゼのボディーガードがするように、竹の皮を編んで作った胴乱を背負って、ある程度離れてだが、ついて行くことにした。今進行中の重大な事態をもたらした決断と決行の結果を、大急ぎで考察する必要があるのに、それに先んじて、それを追い越して、僕の行動は、もう、どんどん大胆になる。
作品名:ネヴァーランド 作家名:安西光彦