ネヴァーランド
連鎖球菌、病原性大腸菌、赤痢菌、サルモネラ菌等々に帝国は汚染されている。流行性肝炎が蔓延している疑いもある。特に子供はウイルスや菌に敏感だ。統一センター試験を受けるまで生き延びられる子供の生存率は五割以下だ。コレラが出たら子供どころか市民が全滅する。
汚れた水場を閉鎖し、火葬を導入することで、衛生環境を改善しようとしたがまだ不十分だ。経口感染を防ぐために、食べ物を加熱処理する習慣を導入する必要がある。
ふと、横槍を入れるように、小石を詰めて隠した水晶の塊りが思い浮かんだ。木の洞に隠したかけらのイメージが幾分薄れた。
だが、溶岩洞にある水晶は、再び利用することを想定せず、誰にも見つからないように隠した。僕にさえも見つかりにくいだろう。ふくらみのある岩を選んで、闇雲に割っていけば、いつかは他の水晶が見つかるだろうが。
一方、木の洞にあるかけらは、再利用するつもりで隠した。場所も覚えている。すぐそばにある。
洞の穿たれた木に向う決意を新たにして、川下に体を向けた。
闇を貫く川面は、巨大ホタルの飛跡のように、ほの白く光っていた。そろそろ獣達が水を飲みに来てもいい頃となる。恐竜はまず来ない。
大河を遡るにつれて、恐竜の出現頻度は減っていった。滝の上では、淡水竜を除いては、生息していないようだった。戦争の時に、二頭の恐竜が現れたのは、低地から迷い込んできた珍しい例だ。だが、獣達だって恐ろしい。僕らが必死で投石しても、追い返せるかどうか。時は刻々過ぎていく。ぼんやりしていて、既にかなりの時間を失ってしまった。
まだしかめっ面をしてうなだれているヒトミの肩を抱き寄せて、岸辺へ誘いながら、その耳にささやいた。行くぞ。ついてこい。
先に行く雲古を追い越しかねないスピードで、川原を走り下る。
白い霧がこの土地の気温に慣れて消えていくので、まわりの闇は深まる一方だ。もう月と星が灯になりかねないほど充実して輝くようになったので、空のほうが明るい。僕達の影が、石ころの上を踊りくねる。
不穏な群衆の中で、探していた知り合いを見つけた時の安堵感を伴って、葦の原の向こうの雑木の中、親しげで懐かしい姿勢をとった木の影を見出した。
葦を踏みしだく際に、右目を葉の縁で切ったようで、涙が止らなくなったが、ひるまず近寄る。洞に指を入れようと右腕を伸ばした瞬間、ヒトミが肘を両手でつかんで引き戻し、僕とそっくりに舌打ちをしながら、首を横に振った。何? ヒトミは体を折って枯れ枝を拾い、僕に握らせた。僕はそれで洞を小刻みにつつく。毒虫が入り込んでいるかもしれないからだ。ありがとう。
液体の抵抗感は感じられたが、生き物のうごめきは伝わってこなかった。右手を手首まで入れて、溜まった雨水に浸っているかけらを取り出す。両手のひらでぬぐい、さらに腹で擦って、泥と滓を落とした。親指と人差し指で挟んで、結晶面の一つに張り付いている月と無数の星を気にしつつ、口に含んだ。冷たいかけらは、施設の製氷庫で作られていた氷を思い出させた。腐った樹液のかすかな臭いが内側から鼻をくすぐった。右頬と歯の間に舌を使って押し入れる。
振り向いた僕の顔をヒトミはちょっとたじろいでから興味深げに見た。きっと、急に虫歯にでもなって頬が膨れたようなのだろう。笑ってもいいぞ。
親しげだったのはその木だけで、林は以前来た時よりも違和感を増し、騒々しい。
再び、追い立てられるように、今度は川原ではなく浅瀬を走った。近寄ってくる獣を水音で追い払えると思ったからだ。しかし、僕達を見逃さない何者かが、前方に用事でもあるような振りをして並んで走りながらも、徐々にこちらに近づいてくる気配がした。二本の走行線を前方の闇に交じらわせてみた。足がすくみかけた。自分を叱咤した。
左右をなるべく見ないようにしても、目じりの辺りを、あの濃い黒たちが、ぼやけたマリとなって、跳ねながら後ろへ移動して行く。
視野の中央左寄りに、川面から突き出た大きな人差し指が迫る。僕がさっきまで気分よくぶら下がってフンしていた岩だ。毎日ここへ来るという目論見は、もろくも潰え去った。
引きつけられるようによろめき、左手でちょっとだけその頭を撫でてから後ろへ押した。ここでも、さらば、友よ、だ。
ヒトミがたてる背後の水音が、近寄ったり遠ざかったりした。時々断絶するのはこけた証拠だが、僕だって何度もこけた。
そして、肉体的なあえぎや疲労や失態とは別に、僕を侵すものが出現した。
闇から押し寄せてくる恐怖が、僕の内にまずひと吹きの不安を誘発した。それが、周囲ではもう消えた霧が別天地を見つけたかのように、むらむらと膨れ上がってきた。
恐怖と不安は、前者のほうが強度は遥かに大きいが、類縁関係にある。恐怖は、外部にある他者が惹き起こす。不安は、内部に他者が生まれたことによる不整合に原因がある。
では、どんな不整合か。
水晶を利用しようとする構想に対して、ある重大な疑問が生じたのだ。
コントロールできるのだろうか、彼らも僕も、火を?
91)
水晶のかけらを集光レンズとして利用するという単純素朴な働きかけが、比喩として、ほんのわずかの一歩であっても、働きかけられる社会全体にとっては、巨大な一歩となりうる。たまたま僕は偶然が積み重なったせいでそういう重大な機会に遭遇している。
この一歩は、幸せ、幸せってなんだっけ、への一歩になるのか、災忌、反吐が出るほど経験して鈍感になってしまいそう、への一歩になるのか。
To Do or Not To Do. それが問題だ。
予測できる余裕のある段階で判断をしなければ、未来は勢いづいてすぐに現実となってしまい、取り返しがつかなくなる。焦らず、だが、すぐに、判断しなくては。いざという時には焦るクセのある僕にとっては苦手な場面だ。実際、もう焦りかけているので、余裕はすでになくなったと疑っているが。
To Do は何を意味するかというと……
火の用途は水や食料の加熱処理にとどまらない。鳥辺野とは別に、ごみ焼却施設も設置できる。葦や蕎麦の実を脱穀してパンを焼ける。陶作部となって、陶磁器を作れる。加熱処理するためにはなくてはならない道具だ。今、水を蹴散らしている川の床には、赤目砂鉄が沈んでいる。鍛冶部となって、たたらを踏んで、砂鉄から粗鋼を作れる。掘削して出てくる岩に混じって黄銅鉱を見つけたことがある。鉄器も銅器も生産可能だ。鉄芯と砂と石灰で鉄筋コンクリート製の構造体ができる。施設ニッポンや、施設アメリカのような、巨大で頑丈な白亜の城砦が出現する。スチームエンジンを開発できる。電線を何重にも回して結んで閉回路を作り、磁石と組み合わせると発電が可能だ。
Not To Doは何を意味するかというと……
水晶を僕だけが秘匿しておくことはなんとかできたとしても、ひとたび焦点から逃れた火は、もう水晶に拘束されない。火を利用するとは、帝国内の全員が火を利用するという、全称命題で表されることがらだ。



