夕景の正体
「夕色の素描」
空の三割が雲で、残りには有色な無があった。昼間に青く見えていたところに、そのまま夕日の色が差し替えられて、夕景となっていた。
夕日の近くの雲は、夕日の強い色に外側を侵食されて、内側に豊かな滲みを持っていた。その滲みは雲の輪郭を抜け出ることはせず、雲の内側でだけ滞留している。雲はもう白ではない。
昼間の雲には青空の色はちっとも滲まないというのに、夕景のそれは雲に干渉する。そして夕日の干渉を受けた雲は、自身に濃淡を見せて、暗く見えるところが影のようになって、やけに立体的に見えてくる。一枚画のように見える昼間の空とは違って、夕景というものは奥行きと言おうか、そういうものが感じられて、すうっと意識が向こうに吸い込まれるような、そんな気さえしてくる。
そしてそういう夕景の手前側に、無数の色たちの終着点に私がいる。
左の方に夕日があり、そこを中心にして色が伸びている。夕日から遠い右の方には、影響をあまり受けていないのか、紫の雲が均一な色を保っている。夕日に近い方には夕日の色が侵略し始めているが、紫は輪郭で確実に押し返していた。私はそういう夕景を見ながら、輪郭一杯に広がった紫の粒子一つ一つが拡大して見えるような、そんな思い込みすら起こし始めていた。しばらくその紫の雲をみていたが、突然輪郭がふっと消えて、そこに夕日の色が差し込んで来た。紫雲は一瞬のうちに消えてしまった。
次に夕日に近い、やけに細長い雲を見た。そいつは空の左右に長く伸びていて、右の方は重青く、左の方は刺激的な赤になっていた。輪郭は染まることなく、確かに見えていて、一つの雲の中で絶妙なグラデーションを見せていた。そしてその細長い雲を仕切りとして、住宅街の灯りを下に、寒空と宇宙の暗い空気を上へと分離していた。
その細長い雲の右。重暗くなっている端の、もっと私に近い所に木が三本立っている。二本は晩秋らしい紅葉が枝の先にいくつか連なっているが、残りの一本はそうではなかった。枝のほとんどは葉を落としてしまっていて、裸の枝の広がりは一枚の葉の葉脈に見えてくる。枝分かれの隙間に重暗い空の色が落とし込まれて輪郭を持っているように見えるのだ。そこもまた、夕景の色には染まってはいない。その木は冬のものに近かった。
そして細長い雲もまた、永くは持たなかった。左の、夕日に一番近い所の輪郭がふっと消えて、そこから雲の内側の色彩が漏れ出るようにして消えていった。中身が尽きた雲は、そのまますべての輪郭を失って、殻の残骸を残すことなく夕景の中に溶け込んでしまった。葉脈もまた、ただの枯れ木となってしまった。
夕景の端の、重暗くなっている所にカラスがいて、随分向こうを飛んでいるらしく、ゆっくりと青い所だけを旋回していた。夕景に溶けたビルにぶつかることはなく、夕景の赤い所に向かうこともしなかった。一体、どういう理由があるのか分からないが、カラスはそこを延々と旋回していた。(私はそのカラスが妙に人間らしく思えていた)
夕日に近い雲が次々と壊されて、侵略に負けている。夕日は雲を壊すたびに強くなっている。色も、光も、熱も、すべてが増していっていて、夕景の端の夜を押し返していく。夜を知っている私から見れば、それは強大な敵に対する微力な抵抗のようにも思えるのが、なんとも寂しい。
ほんの一瞬、心があっあっとなるような、浮わついた感覚が巡り、私は夕景に侵された風景の色の輝きを見た。枯れ葉は表面のざらつきを失って、つるりとした輝きを持って、地面で静止していた。あれは、あれはほんの一瞬だった。夕日のもっと純粋な色が、あの滲んだ中心から放たれて、私の周りにはもちろん、あのカラスの目玉にさえ、あの色は入り込んでしまった。そうして染め上げたはずの風景の色が、雲の、枯れ木の、葉の、路面の、窓硝子の、住宅街の灯りの、それら風景本来の色が、どういうわけか私に強く届き、夕景の強い色が敷き詰められている中で各々一斉に自己主張したのだ。一方に負けることもなく、混ざり合うこともなく、ただただ、両者は同じ強さの色を私に届けていた。
夕日は次第に最盛期を終えてしまって、カラスの近くでくすぶっていた夜が下にある住宅街を先に染めあげていた。夕日は分厚い皮を剥かれてしまって、薄皮一枚の寂しい様子になっていた。弱まった夕日の下で、暗くなった住宅街では街灯が息を吹き返し、滲むように夜がこみあげてくる。路面は街灯の僅かな熱すら留めることができずにいる。それほど夜の冷え込みが厳しい季節がやってきてしまっている。私は確かに迫りくる夜を思った。右の方ではもう夜が強くなったようで、随分暗い。まだ夕景が現れて少ししか経っていないのに、夜は待ってはくれない。私はここまで見事な夕景が夜に消えてしまうことがなんだか寂しく思えて、どうにか保存できないかと写真を撮ることにした。現代は写真を撮ることが容易で本当にありがたい。
あの夕日を左の方に、そこから伸びる光の線を一本鮮明に残し、夕景の色を最も純粋に残して、下の住宅街の色調を二段階ほど落とす。そういう写真を撮ろうとしたのだ。
三枚ほど撮ると、一枚だけ見事な写真があった。残りの二枚はなんだかぼけた写真になってしまって、そのまま消去した。消去した写真に写り込んでいた枯れ木には、こがらしがささり、枯れ木は内側まで水分を奪われて、朽ちていくようだった。あの木はもうそろそろ、本格的な冬木になるのだろう。
一枚の美しい写真を見ながら、私はなぜか、なんとなく物足りなく思い始めていた。この写真は紛れもなく美しいのだが、どうにもおかしい。変わることのない写真だが、夕日の、雲の、住宅街の色たちが蒸発するように抜けていっているような気がしてならない。動かないはずの写真に時間が入り込んで劣化している。私にはそう思えて仕方がなかった。
液晶に広がる夕景の色から上へ、上へと枠を越えて見れば夕景がさらに夜に向かって廃れていた。あれほど個性的に流れていた雲が、今では弱りきって夜に負けている。住宅街の上にぽっと残っている小雲には夕景の色が雲の上辺りの方にだけ微かに残っている。
ああ、あいつは群れから離れてしまった! もうどこに行くべきか、さっぱり分かっていないのだ。仲間はもう行ってしまったというのに!
あの雲に宿っていた夕景の美。私はあの夕景を留めたはずであるのに、ちっともうれしくもなかった。
いやいやいや、それ以上に何だ、この寂しさに似たよくわからない感覚は!
何かをなくした時の寂しさ、もしくは何かを成し遂げた後の虚無、そういうものを凝縮させて、再上映されているかのような圧倒的な寂しさ! しかしどこか輪郭がぼやけていて、これが本当に寂しさなのかすらわからない。手の中に、夕景が永遠となって残っているというのに、なぜこんなにも寂しいのだろうか。こがらしのせいか、枯れ木のせいか。カラスのせいか。――私のせいか。
空の三割が雲で、残りには有色な無があった。昼間に青く見えていたところに、そのまま夕日の色が差し替えられて、夕景となっていた。
夕日の近くの雲は、夕日の強い色に外側を侵食されて、内側に豊かな滲みを持っていた。その滲みは雲の輪郭を抜け出ることはせず、雲の内側でだけ滞留している。雲はもう白ではない。
昼間の雲には青空の色はちっとも滲まないというのに、夕景のそれは雲に干渉する。そして夕日の干渉を受けた雲は、自身に濃淡を見せて、暗く見えるところが影のようになって、やけに立体的に見えてくる。一枚画のように見える昼間の空とは違って、夕景というものは奥行きと言おうか、そういうものが感じられて、すうっと意識が向こうに吸い込まれるような、そんな気さえしてくる。
そしてそういう夕景の手前側に、無数の色たちの終着点に私がいる。
左の方に夕日があり、そこを中心にして色が伸びている。夕日から遠い右の方には、影響をあまり受けていないのか、紫の雲が均一な色を保っている。夕日に近い方には夕日の色が侵略し始めているが、紫は輪郭で確実に押し返していた。私はそういう夕景を見ながら、輪郭一杯に広がった紫の粒子一つ一つが拡大して見えるような、そんな思い込みすら起こし始めていた。しばらくその紫の雲をみていたが、突然輪郭がふっと消えて、そこに夕日の色が差し込んで来た。紫雲は一瞬のうちに消えてしまった。
次に夕日に近い、やけに細長い雲を見た。そいつは空の左右に長く伸びていて、右の方は重青く、左の方は刺激的な赤になっていた。輪郭は染まることなく、確かに見えていて、一つの雲の中で絶妙なグラデーションを見せていた。そしてその細長い雲を仕切りとして、住宅街の灯りを下に、寒空と宇宙の暗い空気を上へと分離していた。
その細長い雲の右。重暗くなっている端の、もっと私に近い所に木が三本立っている。二本は晩秋らしい紅葉が枝の先にいくつか連なっているが、残りの一本はそうではなかった。枝のほとんどは葉を落としてしまっていて、裸の枝の広がりは一枚の葉の葉脈に見えてくる。枝分かれの隙間に重暗い空の色が落とし込まれて輪郭を持っているように見えるのだ。そこもまた、夕景の色には染まってはいない。その木は冬のものに近かった。
そして細長い雲もまた、永くは持たなかった。左の、夕日に一番近い所の輪郭がふっと消えて、そこから雲の内側の色彩が漏れ出るようにして消えていった。中身が尽きた雲は、そのまますべての輪郭を失って、殻の残骸を残すことなく夕景の中に溶け込んでしまった。葉脈もまた、ただの枯れ木となってしまった。
夕景の端の、重暗くなっている所にカラスがいて、随分向こうを飛んでいるらしく、ゆっくりと青い所だけを旋回していた。夕景に溶けたビルにぶつかることはなく、夕景の赤い所に向かうこともしなかった。一体、どういう理由があるのか分からないが、カラスはそこを延々と旋回していた。(私はそのカラスが妙に人間らしく思えていた)
夕日に近い雲が次々と壊されて、侵略に負けている。夕日は雲を壊すたびに強くなっている。色も、光も、熱も、すべてが増していっていて、夕景の端の夜を押し返していく。夜を知っている私から見れば、それは強大な敵に対する微力な抵抗のようにも思えるのが、なんとも寂しい。
ほんの一瞬、心があっあっとなるような、浮わついた感覚が巡り、私は夕景に侵された風景の色の輝きを見た。枯れ葉は表面のざらつきを失って、つるりとした輝きを持って、地面で静止していた。あれは、あれはほんの一瞬だった。夕日のもっと純粋な色が、あの滲んだ中心から放たれて、私の周りにはもちろん、あのカラスの目玉にさえ、あの色は入り込んでしまった。そうして染め上げたはずの風景の色が、雲の、枯れ木の、葉の、路面の、窓硝子の、住宅街の灯りの、それら風景本来の色が、どういうわけか私に強く届き、夕景の強い色が敷き詰められている中で各々一斉に自己主張したのだ。一方に負けることもなく、混ざり合うこともなく、ただただ、両者は同じ強さの色を私に届けていた。
夕日は次第に最盛期を終えてしまって、カラスの近くでくすぶっていた夜が下にある住宅街を先に染めあげていた。夕日は分厚い皮を剥かれてしまって、薄皮一枚の寂しい様子になっていた。弱まった夕日の下で、暗くなった住宅街では街灯が息を吹き返し、滲むように夜がこみあげてくる。路面は街灯の僅かな熱すら留めることができずにいる。それほど夜の冷え込みが厳しい季節がやってきてしまっている。私は確かに迫りくる夜を思った。右の方ではもう夜が強くなったようで、随分暗い。まだ夕景が現れて少ししか経っていないのに、夜は待ってはくれない。私はここまで見事な夕景が夜に消えてしまうことがなんだか寂しく思えて、どうにか保存できないかと写真を撮ることにした。現代は写真を撮ることが容易で本当にありがたい。
あの夕日を左の方に、そこから伸びる光の線を一本鮮明に残し、夕景の色を最も純粋に残して、下の住宅街の色調を二段階ほど落とす。そういう写真を撮ろうとしたのだ。
三枚ほど撮ると、一枚だけ見事な写真があった。残りの二枚はなんだかぼけた写真になってしまって、そのまま消去した。消去した写真に写り込んでいた枯れ木には、こがらしがささり、枯れ木は内側まで水分を奪われて、朽ちていくようだった。あの木はもうそろそろ、本格的な冬木になるのだろう。
一枚の美しい写真を見ながら、私はなぜか、なんとなく物足りなく思い始めていた。この写真は紛れもなく美しいのだが、どうにもおかしい。変わることのない写真だが、夕日の、雲の、住宅街の色たちが蒸発するように抜けていっているような気がしてならない。動かないはずの写真に時間が入り込んで劣化している。私にはそう思えて仕方がなかった。
液晶に広がる夕景の色から上へ、上へと枠を越えて見れば夕景がさらに夜に向かって廃れていた。あれほど個性的に流れていた雲が、今では弱りきって夜に負けている。住宅街の上にぽっと残っている小雲には夕景の色が雲の上辺りの方にだけ微かに残っている。
ああ、あいつは群れから離れてしまった! もうどこに行くべきか、さっぱり分かっていないのだ。仲間はもう行ってしまったというのに!
あの雲に宿っていた夕景の美。私はあの夕景を留めたはずであるのに、ちっともうれしくもなかった。
いやいやいや、それ以上に何だ、この寂しさに似たよくわからない感覚は!
何かをなくした時の寂しさ、もしくは何かを成し遂げた後の虚無、そういうものを凝縮させて、再上映されているかのような圧倒的な寂しさ! しかしどこか輪郭がぼやけていて、これが本当に寂しさなのかすらわからない。手の中に、夕景が永遠となって残っているというのに、なぜこんなにも寂しいのだろうか。こがらしのせいか、枯れ木のせいか。カラスのせいか。――私のせいか。