Blackbird
粉々になったサイドウィンドウから漏れる音で、乗り捨てた男が直前まで何を聴いていたのかが分かった。工藤は、ラジエターからもやのような煙を上げているエクストレイルをやり過ごし、垂水がジーンズのポケットからくしゃくしゃになったアメリカンスピリットの箱を取り出すのを見て、首を横に振った。
「まだだ」
垂水は一瞬真っ暗な空を見上げたあと、諦めたようにポケットにねじ込んだ。アメフト選手に脂肪のアクセサリーを一枚纏ったような外見。毛玉だらけのグレーのパーカーから覗く、首もとのだらけたライトブルーのTシャツには大きな猫の顔が描かれていて、靴は色の分からなくなったニューバランスのスニーカー。腕時計だけにこだわりがあり、シーマスターを巻いている。同じように長身だがひと回り細身な工藤は、いつも通りダークグレーのスーツ上下だったが、カッターシャツの襟にネクタイを抜いた跡がまだ残っていた。外見にはこだわりがなく、最も透明人間に近い出で立ちを選んだ結果、このようになった。
土手沿いのポンプ場から水が排出される音に混じって、ドラムロールのようなコンプレッサーの音。その音より頭を低くするように、工藤は身を低くして真っ暗な草むらを歩いた。その手前に使われていない建物があって、逃げる先としてはそこ以外にない。相手に反撃する意思があれば、銃眼のように空いた真っ暗な窓から、こちらの姿を確認しようと目を凝らせているだろう。垂水は、草むらを割るように土手に敷かれた階段を指差した。工藤は無言でうなずき、草むらをそのまま進んだ。垂水はゆっくりと階段を上がり、送電線の根元に設置された変電施設の裏に身を隠した。金網越しに、うっすらと建物が見える。垂水は左肩に吊ったスリングを抜いて、子供の背丈ぐらいある散弾銃を両手で支えた。
工藤は草むらがやや低くなった土手の終端まで来ると、斜面を静かに登り、建物の裏側に目を凝らせた。裏側には窓はないが、入口がぽっかりと黒い口を開けている。工藤は元来た道を戻り、窓を見上げられる位置まで来ると、四五口径のコルトゴールドカップを胸の前で構えて息を殺した。
垂水はアメリカンスピリットの箱をポケットから取り出すと、一本をくわえて火をつけた。浅く煙を吸い込んだとき、二階の一番左の窓で影が動いた。二〇インチ銃身のレミントン八七〇を構えるよりも早く、窓がオレンジ色のフラッシュを焚いたように光り、垂水が頭を下げた瞬間に真上を弾がかすめた。同時に、体を起こした工藤が四五口径の引き金を二回絞った。窓の中に飛び込んだ二発の内一発は、男の銃に当たって火花を起こすのと同時に、右手を中指の付け根からもぐように吹き飛ばした。二発目は左胸に斜めに着弾し、骨を砕きながら左肺の中で止まった。
工藤は立ち上がって建物の裏側まで走ると、左手にマグライトを持って暗闇を照らしながら階段を駆け上がった。二階の窓。そのすぐ後ろに仰向けに倒れた男。右手だった血の塊のすぐ横には、シリンダーが大きくへこんだスミスアンドウェッソンの六八六。工藤がそれを取り上げると、男は血を吐きながら呟いた。
「くそっ……、お前かよ」
工藤は右手に持ったゴールドカップを男の頭に向けた。男は覚悟したように目を閉じた。
「やれよ」
遠くの方でエンジンのかかる音。工藤は銃口を下げた。
「お前がその二発を喰らったのは、何が原因だ」
煙草の火に気をとられて、二人目の位置を気にしなかった。目を開けた男に、工藤は言った。
「俺に頼るな。自分のミスで死ね」
垂水の乗るジムニーが土手の細い道を器用にバックで下がってくるのを見て、工藤はゴールドカップの安全装置を起こした。同時に男が最後の息を吐き出して死んだ。男の死体と銃を、リアシートが外されてビニールシートの敷かれたジムニーの荷室に積み込み、工藤は助手席に座った。運転席に戻った垂水はシフトノブを忙しなく横に動かしながら言った。
「お疲れさまっす」
「行け」
工藤が短く言うと、垂水はぶらぶらと振っていたシフトノブを一速に入れた。男のエクストレイルをやり過ごすところで工藤が降り、窓の破片をシートからどけると、運転席に座った。ずっとかかっていた曲が終わり、次の曲に切り替わる前にオーディオのスイッチを切った。
最寄りの『解体現場』は、鉢巻のような形の錆びた看板が目印の廃工場。厳重にバリケードが張られていて、交代で一人が常駐している。先行するジムニーが入口でパッシングすると、鉄製の扉が音を立てて開いた。二台が中に入り、何事もなかったかのように扉が閉まると、垂水が運転席から降りて大きく伸びをした。
「骨が折れるわ」
仕事終わりの楽しみにしていたスナック菓子の封を切ると、垂水は中身を吸い込むように食べて大きくむせた。工藤はスーツにくっついたガラスの細かな破片を落とすと、深呼吸をした。垂水は四十一歳。工藤は四十五歳になった。現場仕事は年々きつくなっている。工藤は言った。
「その掃除機みたいな食い方は、いつか死ぬぞ」
垂水はスナック菓子の残りを袋ごとがらがらと振ると、笑った。ジムニーのリアハッチを開けると、男の死体を眺めながら言った。
「頭、撃たなかったんすね」
工藤はゴールドカップを作業台の上に置いて、うなずいた。
「弾はタダじゃない」
垂水は結局撃たなかった散弾銃から弾を抜くと、口角を上げて静かに笑った。いかにもベテランの工藤らしい。この業界で長生きできる人間は少ない。垂水も長生きな方だが、弾を喰らって死ぬことだけはないだろうという、妙な自信があった。今までに目の前すれすれを弾が飛んできたことは何度もあるが、何故か直前で弾が自分を避ける。ついさっきも、三五七マグナムが頭上すれすれをかすめたばかりだ。しかし、一度バックしてきた仲間の車に轢かれそうになったことがあり、車の動きにだけは気を配るようにしていた。そういう変なジンクスを持っている人間は、この業界に多い。垂水は死体を下ろすと、荷室に張られたビニールシートの端を持ち上げて、血を真ん中に寄せた。工藤はくの字に折れ曲がった死体の肩を持つと、仰向けに転がし、携帯電話で顔の写真を撮った。シャッターの音で振り向いた垂水に、言った。
「集中しろ」
工藤は死体から写真へと魂が移ったように、携帯電話の画面を眺めた。見張りが流すラジオからは、原発の話題。東北地方で大地震が起きてから、二週間が経った。今日は、二〇一一年三月二六日。ほとんどの報道が東北地方に向く中、こちらの周りもざわついている。現在二つある組織が合流して、合同のネットワークを作る。渉外係になっている古野は、そう説明した。反応は様々。フリーランスになる人間、反発する人間、すぐに鞍替えする人間。
そして、向こう側の組織に長く仕えていて、こちらの有能な人材をリクルートする人間がいる。
合同というのは嘘っぱちだ。歴史が長いのはこちらだが、恐らく吸収される運命にある。工藤は、『自分のミスで死んだ』男の写真をじっと見つめた。
『お前かよ』
死の直前のあの言葉。少なくとも、向こうはこっちの顔を知っていたということになる。
「まだだ」
垂水は一瞬真っ暗な空を見上げたあと、諦めたようにポケットにねじ込んだ。アメフト選手に脂肪のアクセサリーを一枚纏ったような外見。毛玉だらけのグレーのパーカーから覗く、首もとのだらけたライトブルーのTシャツには大きな猫の顔が描かれていて、靴は色の分からなくなったニューバランスのスニーカー。腕時計だけにこだわりがあり、シーマスターを巻いている。同じように長身だがひと回り細身な工藤は、いつも通りダークグレーのスーツ上下だったが、カッターシャツの襟にネクタイを抜いた跡がまだ残っていた。外見にはこだわりがなく、最も透明人間に近い出で立ちを選んだ結果、このようになった。
土手沿いのポンプ場から水が排出される音に混じって、ドラムロールのようなコンプレッサーの音。その音より頭を低くするように、工藤は身を低くして真っ暗な草むらを歩いた。その手前に使われていない建物があって、逃げる先としてはそこ以外にない。相手に反撃する意思があれば、銃眼のように空いた真っ暗な窓から、こちらの姿を確認しようと目を凝らせているだろう。垂水は、草むらを割るように土手に敷かれた階段を指差した。工藤は無言でうなずき、草むらをそのまま進んだ。垂水はゆっくりと階段を上がり、送電線の根元に設置された変電施設の裏に身を隠した。金網越しに、うっすらと建物が見える。垂水は左肩に吊ったスリングを抜いて、子供の背丈ぐらいある散弾銃を両手で支えた。
工藤は草むらがやや低くなった土手の終端まで来ると、斜面を静かに登り、建物の裏側に目を凝らせた。裏側には窓はないが、入口がぽっかりと黒い口を開けている。工藤は元来た道を戻り、窓を見上げられる位置まで来ると、四五口径のコルトゴールドカップを胸の前で構えて息を殺した。
垂水はアメリカンスピリットの箱をポケットから取り出すと、一本をくわえて火をつけた。浅く煙を吸い込んだとき、二階の一番左の窓で影が動いた。二〇インチ銃身のレミントン八七〇を構えるよりも早く、窓がオレンジ色のフラッシュを焚いたように光り、垂水が頭を下げた瞬間に真上を弾がかすめた。同時に、体を起こした工藤が四五口径の引き金を二回絞った。窓の中に飛び込んだ二発の内一発は、男の銃に当たって火花を起こすのと同時に、右手を中指の付け根からもぐように吹き飛ばした。二発目は左胸に斜めに着弾し、骨を砕きながら左肺の中で止まった。
工藤は立ち上がって建物の裏側まで走ると、左手にマグライトを持って暗闇を照らしながら階段を駆け上がった。二階の窓。そのすぐ後ろに仰向けに倒れた男。右手だった血の塊のすぐ横には、シリンダーが大きくへこんだスミスアンドウェッソンの六八六。工藤がそれを取り上げると、男は血を吐きながら呟いた。
「くそっ……、お前かよ」
工藤は右手に持ったゴールドカップを男の頭に向けた。男は覚悟したように目を閉じた。
「やれよ」
遠くの方でエンジンのかかる音。工藤は銃口を下げた。
「お前がその二発を喰らったのは、何が原因だ」
煙草の火に気をとられて、二人目の位置を気にしなかった。目を開けた男に、工藤は言った。
「俺に頼るな。自分のミスで死ね」
垂水の乗るジムニーが土手の細い道を器用にバックで下がってくるのを見て、工藤はゴールドカップの安全装置を起こした。同時に男が最後の息を吐き出して死んだ。男の死体と銃を、リアシートが外されてビニールシートの敷かれたジムニーの荷室に積み込み、工藤は助手席に座った。運転席に戻った垂水はシフトノブを忙しなく横に動かしながら言った。
「お疲れさまっす」
「行け」
工藤が短く言うと、垂水はぶらぶらと振っていたシフトノブを一速に入れた。男のエクストレイルをやり過ごすところで工藤が降り、窓の破片をシートからどけると、運転席に座った。ずっとかかっていた曲が終わり、次の曲に切り替わる前にオーディオのスイッチを切った。
最寄りの『解体現場』は、鉢巻のような形の錆びた看板が目印の廃工場。厳重にバリケードが張られていて、交代で一人が常駐している。先行するジムニーが入口でパッシングすると、鉄製の扉が音を立てて開いた。二台が中に入り、何事もなかったかのように扉が閉まると、垂水が運転席から降りて大きく伸びをした。
「骨が折れるわ」
仕事終わりの楽しみにしていたスナック菓子の封を切ると、垂水は中身を吸い込むように食べて大きくむせた。工藤はスーツにくっついたガラスの細かな破片を落とすと、深呼吸をした。垂水は四十一歳。工藤は四十五歳になった。現場仕事は年々きつくなっている。工藤は言った。
「その掃除機みたいな食い方は、いつか死ぬぞ」
垂水はスナック菓子の残りを袋ごとがらがらと振ると、笑った。ジムニーのリアハッチを開けると、男の死体を眺めながら言った。
「頭、撃たなかったんすね」
工藤はゴールドカップを作業台の上に置いて、うなずいた。
「弾はタダじゃない」
垂水は結局撃たなかった散弾銃から弾を抜くと、口角を上げて静かに笑った。いかにもベテランの工藤らしい。この業界で長生きできる人間は少ない。垂水も長生きな方だが、弾を喰らって死ぬことだけはないだろうという、妙な自信があった。今までに目の前すれすれを弾が飛んできたことは何度もあるが、何故か直前で弾が自分を避ける。ついさっきも、三五七マグナムが頭上すれすれをかすめたばかりだ。しかし、一度バックしてきた仲間の車に轢かれそうになったことがあり、車の動きにだけは気を配るようにしていた。そういう変なジンクスを持っている人間は、この業界に多い。垂水は死体を下ろすと、荷室に張られたビニールシートの端を持ち上げて、血を真ん中に寄せた。工藤はくの字に折れ曲がった死体の肩を持つと、仰向けに転がし、携帯電話で顔の写真を撮った。シャッターの音で振り向いた垂水に、言った。
「集中しろ」
工藤は死体から写真へと魂が移ったように、携帯電話の画面を眺めた。見張りが流すラジオからは、原発の話題。東北地方で大地震が起きてから、二週間が経った。今日は、二〇一一年三月二六日。ほとんどの報道が東北地方に向く中、こちらの周りもざわついている。現在二つある組織が合流して、合同のネットワークを作る。渉外係になっている古野は、そう説明した。反応は様々。フリーランスになる人間、反発する人間、すぐに鞍替えする人間。
そして、向こう側の組織に長く仕えていて、こちらの有能な人材をリクルートする人間がいる。
合同というのは嘘っぱちだ。歴史が長いのはこちらだが、恐らく吸収される運命にある。工藤は、『自分のミスで死んだ』男の写真をじっと見つめた。
『お前かよ』
死の直前のあの言葉。少なくとも、向こうはこっちの顔を知っていたということになる。