夕霧
6 転職
地方都市には遠く及ばない、周囲に田園を従えた小さな町。その町の唯一の目抜き通りに建つ稲村ビル。とても周囲と溶け込んでいるとは言えないその近代的なビルの最上階十階に社長室が設けられていた。大きなガラス張りの窓から眼下を見渡すと、まるで城から城下町を見下ろしているかのような錯覚に誰もが陥る。そんな天守閣のような一室で、この社長室の主である稲村徳次郎と、長男涼介の舅に当たる秋月哲次は、向かい合って挨拶を交わしていた。
「秋月さん、お目にかかるのはずいぶんと久しぶりですな」
「稲村さんもお変わりないようで。この歳になりますと、お互い息災が何よりですから」
「ところで、こちらにお見えとは意外ですな。家のことでしたら自宅の方においでいただくかと」
「いいえ、仕事のことも絡んだ話なものでこちらに伺いました」
「仕事? 涼介のことではないと?」
「いいえ、涼介君の仕事のことです」
「なんと! 私は耳が遠くなったかな。
息子の涼介とはちょっとした行き違いがあって、それで幸子さんが今お宅に帰っているわけだが、涼介がウチの社員、いや、私の後継者であることには変わりはないですぞ」
「おや、私が聞いた話とはだいぶ違いますね。
なんでも幸子たちの子どものことまで無体な要求をされ、涼介君は家を出る覚悟をしたとか。そうなればもちろん会社も辞めることになりますな」
「いや、だから、親子だから多少行き過ぎた話し合いにもなる、わしはただ、涼介がもう一人子どもをもうけるというから、男だったら養子に出すようにと言っただけでしてな」
「それが、常識外れだというんですよ。本気でおっしゃっているなら常軌を逸している!」
それまで、お互い歳相応に冷静に言葉を交わしてきたが、哲次の声が大きくなった。
「あなたこそ、経営者としての才覚があるのか疑わしい。後継者は一人でいい。二人いたら争いの元だ!」
二人は互いの主張を受け入れられない空気に包まれ、口調は激しくなっていった。
「稲村さん、あなたと私とでは根本的な考え方が違うようだ。私は、信頼できる身内が支え合ってこそ、会社は存続、繁栄すると思っている。こうなったら涼介君にはウチに来てもらいますよ」
「それは、住まいのことですかね?」
「もちろん仕事と両方です」
「秋本さん、先ほども言ったはずだ、涼介はわしの後継者であると」
「でも、本人はこちらの会社を出る意志を固めたようですが」
「…………」
「稲村さん、子どもは何人いてもいいものですよ。男だって女だって。お家騒動の心配などせず、自然に任せたらどうですか?」
先ほどまでとは違い、哲次の物言いは柔らかくなり、静かに徳次郎の心に訴えた。
二人の老人はしばらく互いを見つめ合った。そして、徳次郎が口を開いた。
「よろしい、とりあえずは出向という形で涼介をお宅の秋月機械に預けることにしよう。住まいも今は本人の好きにさせよう。でも、後継者としていつでも呼び戻すことがあるということは忘れないでもらいたい。そして、その時、子どもは太郎だけを連れて戻るということも」
「稲村さん、あんたという人は……」
哲次は、涼介の言う通り話にならないと退散するしかなかった。子どもの使いでもあるまいし……そんな情けない思いを抱え、哲次は社長室を後にした。
哲次が部屋を出ると、徳次郎はすぐに秘書の赤堀を呼んだ。
「あの子の行方はまだわからんのか?」
「はい、社長、弁護士の話では、娘は本当に弟の存在を知らないようです」
「弁護士ではだめだ。専門の調査員を雇え! それから、念のためその娘から目を離すな」
(あの子さえ見つかれば、涼介なんてくれてやる!)