夕霧
4 妻の覚悟
約束の一週間が過ぎた日、涼介は妻から実家に来てほしいとのメールを受け取った。
迎えに来てほしいという言葉でないのが、涼介の心を暗くした。離婚の決心がついたと告げられる覚悟をする時が来たのだろうか。
妻とは見合い、それも親同士がお膳立てした政略結婚ではあったが、暮らしてみるととてもできた妻だった。できればこのまま一緒にいたい。幼い太郎だっている。
でも、あの帝王のような父の元にいてもらう上に、子どもは太郎だけにしてくれなんて言える道理がない。男子を二人産んだら養子に出せなんて暴君のいる家に残る嫁なんているはずがない。
自分の人生を歩むためにはあの家を出るしかない。しかし、それには大きな代償を払わなければならない。これまでの贅沢三昧の生活を捨て去るということは、涼介の人生が根底から覆されるようなものだった。
まずは住む所と働き口を探すところから始めなければならない。妻子を養うなんてすぐにできるだろうか。自分ひとり生きていくのでさえ大変だろう。
重い気持ちを引きずり、涼介は妻の実家の前に立った。そして、ひとつ大きく息を吐いて呼び鈴を押した。
旧家であるその家は重厚な門構えで、人を寄せ付けないたたずまいだった。こんな時は一段と近寄りがたく感じさせる。その要塞の門が開き、エプロン姿の使用人の女性が現れた。その女性に導かれ、涼介は玄関を目指した。
靴を脱ぎ、上がり框に上がると、エプロンの女性はすかさず涼介が脱いだ靴を揃えわきに置いた。そして、長い廊下を通り、ある和室の前まで来ると正座をして声をかけた。
「お見えになりました」
「そうか、入りなさい」
中からは男の声で返事があった。妻ではなく、妻の父である秋月哲次御大が印籠を渡すというわけか……涼介は覚悟を決め、中に入った。
「やあ、涼介君、久しぶり。幸子から話は聞いたよ。君もあの親父さんには苦労するな」
「ご無沙汰しています。この度は、お恥ずかしい話、いいえ、というより、幸子には申し訳ないことをしまして、お義父さんにまでご不快な思いを――」
座布団を脇にずらし頭を下げたところに、先ほどのエプロンの女性がお茶を持ってやってきた。
「まあーそうかしこまらずに座布団を当てて茶でも飲みなさい。そうでないと、落ち着いて話もできない」
「はあ、それでは失礼します」
涼介は言われた通り、座布団に座り、茶を一口啜った。
「しかしまあ、驚いたよ。幸子が一生のお願いだなんて言うから、どんな大変なことを言いだされるかと思ってな」
「は? 幸子はなんと?」
「君を婿養子に迎えて、会社に置いてほしいそうだ。むろん、最初は平社員でいいからと」
涼介は、即座には舅の言っていることが理解できなかった。離婚話を突き付けられる覚悟できたところへ、婿養子? 社員に登用? 幸子はいったい何を考えているのだろうか?
「涼介君、家を出るとは本当なのか?」
「はい、あの親父の事ですから、言うことを聞かなければ勘当ということになると思います」
「そうか、それでは幸子たちを養っていくことは難しくなるわけだ。それで、君はどうするつもりでここへ来たんだね?」
「それは……」
(破れかぶれだ正直に言おう)
「この町では肩身の狭い思いをすることになりますから、幸子さえよければ、一緒にここを出て新しい土地で出直してほしいと頼みに来ました」
「ほほう、心機一転というわけか。ところで、家族を養っていく当てはあるのか?」
「それは……」
「行き当たりばったりと言うのでは、幸子もうんとは言わんだろう。私だって、大切な娘と孫に苦労をさせるわけにはいかないな」
「…………」
「どうだろう、この件は私に任せてもらえないだろうか?」
「とおっしゃいますと?」
「君の父上と、私が話し合ってこよう。もともと、この縁談も彼と私で決めたようなものだからな。おっと失礼、それは言い過ぎだな」
「わかりました、よろしくお願いします」