夕霧
3 母の苦悩
愛育園を出た高瀬夕子は、往きに上ってきた坂道を下っていた。来る時にかかっていた薄霧も晴れ、はるか遠くに富士山がかすかに見える。そして下に目をやると、田畑に囲まれた町が一望できた。二両編成の電車が遠くに走っている。その先には小さな駅舎が見えた。それはまるで、ジオラマでも見ているような小さな小さな世界だった。
その中でひと際目立つ大きな建物が目に入った。それは、この町を代表する稲村繊維の社屋だ。
愛育園の園長は、夕子の母は若い頃、その稲村繊維で働いていたと言った。
『いつか、この子を訪ねて稲村の関係者が来るかもしれません。その時は、母親は遠くへ行くとかでこの子を引き取りに来ることはないと言って預けて行った、冷たい母親だった――そう言ってくださいと』
園長はその言葉が印象に残っていたので、風の噂でもう一人子どもがいたらしいと聞いた時、お城のお家騒動から逃れてきたのだろうと若い母親を気の毒に思ったという。だから、こうして夕子がそのことを確かめ来たことも不思議なことではなかっただろう。
夕子の母、高瀬志津子。夕子が中学を卒業する頃、病で亡くなった。夕子は小学生時代まで愛育園で育ったので、母とともに暮らしたのは中学の三年間と、まだ物心のおぼつかない三歳頃までだけということになる。
愛育園の園長の話によると、幼い夕子の手を引いてあの坂を上ってきた志津子は息も絶え絶えで、どこか体が悪いのではないかと思ったそうだ。もしかしたら、赤ん坊を生んだ後だったのかもしれない、と付け加えた。
幼き日の夕子の記憶の中に母との暮らしはなかった。二、三歳だったのだから無理もないだろう。物心ついた時はすでに園で暮らしていた。だから当然、母が身重だったり、赤ん坊を見た記憶はない。
そして、夕子が中学生になったある日、突然志津子が夕子を引き取りにやって来た。夕子が成長し、母子で暮らす目途が立ったのだろう。志津子は園長に何度も礼を言い、園の人たちに頭を下げて回り、それはうれしそうだったそうだ。
もちろん、夕子もこの日を夢見て幼いながらもがんばってきたのだから、誰よりうれしいはずだが、素直に母の胸に飛びつく歳ではなくなっていた。そして、志津子と夕子親子二人、坂道を下っていく姿を見送ったのを今でも覚えている、と園長は言った。
それからわずか三年で母娘の別れの時がやってきた。長く蓄積された苦労が、命を縮めたことは明らかだった。それでも、最期の時を愛娘と過ごせたことは、苦労続きの志津子にとって何よりの慰めとなったであろう。
しかしその間も、夕子は母の口から、弟の話は一度も聞いたことはない。もちろん、それらしき男の子と会うこともなかった。
母亡きあと、一人になった夕子は、稲村繊維の下請けの小さな町工場で働きながら、定時制の高校へ通った。そして、高校卒業後は、地元の公民館に就職した。と言っても、産休に入った職員の穴を埋める臨時採用だった。しかし、夕子の仕事ぶりが重宝がられ、そのままの状態で八年が過ぎた。
そんな夕子の元に、ある日、ひとりの男が訪ねてきた。
その男は、稲村繊維の依頼を受けた弁護士だと名乗り、内密に夕子の弟を探していると告げた。
夕子は、男の差出した名刺を見つめ一瞬驚いたが、すぐに笑顔に戻った。
「それは何かの間違いです。私には弟などいません。母とふたり暮らしでしたが、その母も亡くなりました」
「お母さまは高瀬志津子さんですよね?」
「はい、そうですが」
「あなたは、お母さまのご親戚とお話されたことはありませんか? あるいはお父さまのお話とかは?」
「母の親戚とは会ったことはありません。父は私が生まれてすぐに亡くなったと聞いています」
「そうですか、何もご存じないのですね。当方の調べたところによりますと、あなたには三歳下に弟さんがいます。と言っても、お父さまは一緒ではありませんが」
夕子の顔が引きつった。
(私に弟……それも父親が違う……)
「まさか、そんな……信じられません!」
「お父さまの突然の死去で、あなたのお母さまは生まれたばかりのあなたをかかえ、大きな借金を背負うことになってしまったのです。運の悪いことに、それはちょうど、お父さまが新たな事業を始めようとしていた矢先だったからです」
「事業……借金……」
「はい、とてもお母さまひとりではどうにもならないほどの額でした。さぞ、お母さまは途方に暮れたことでしょう。
ところで、お母さまは結婚前、稲村繊維で働いていたのはご存知ですか? そして、お母さまはとてもお綺麗だったとか」
「何がおっしゃりたいんですか!」
「稲村繊維の社長が、お母さまの窮地に手を差し伸べられたのです」
「どういうことですか?」
「借金を肩代わりされたのです」
「借金を肩代わり……」
「そうです、それがどういうことかはおわかりですね?
ただ、志津子さんは借金の返済だけをお受けになり、生活の援助は固辞されたそうです。そして、すぐに社長の子を身ごもり、生まれた子が男の子でした。そうとわかると、その子を養子に出すか、三人そろって縁を切るかの選択を社長から迫られたのです」
「そんなばかな! あの母が父を亡くしてすぐに、他の人との間に子どもを……そんなこと考えられません!」
「一度に多くの事実を受け入れるというのは無理でしょうね。
でもこれらはすべて事実です。志津子さんは、多額の負債からあなたとの暮らしを守るため、たとえ意に沿わなくても社長の保護を受けたのです。ところが跡目争いの対象となる男の子の誕生で事態は一変しました。女の子なら問題なかったのでしょうが。
そして、跡取り問題に固執する社長を恐れたお母さまは、弟さんを社長から遠く引き離し隠す決心をされたのでしょう」
「私は信じません!」
「社長がお気に入りの志津子さんを手放してまで男の子を怖れた理由。それは、会社が二分すると異常なまでにこだわっていたからです。
ところが皮肉なことに、その信念が元で、長男の涼介さんとの間に軋轢が生じてしまいました。社長は今まさに大切な跡取りを失いそうな状況に陥っています。そのため、もうひとりの息子であるあなたの弟さんを探しているのです」