夕霧
17 秘書室動静
夕子の勤務は、面接翌日から始まった。
午前中は机に向かい、ひたすらテキストを読んで秘書のイロハを学ぶ。午後は、新田に付いて現場修行。
秘書室員の構成は、各役員専属の秘書がそれぞれ一人、それに新田と丸木。入社二年の新田は、社長付きの秘書赤堀の補佐、同じく丸木は専務付きの三崎の補佐を、そして二人で秘書課全体の雑用も任されていた。その一つが夕子の育成だった。
「私は見習いさんの見習いということですね」
そう言う夕子に、新田は苦笑いを浮かべ、
「そういうことになるのかな」
と言った。
新田や丸木とは、仕事が終わってからも、時々食事をした。年齢が近いということで話しやすかったし、少しでも社内の様子を知りたかったからだ。新田は、そんな夕子の思惑を知ってか知らずか、凛として魅力的な後輩との食事を楽しみ、丸木も先輩風を吹かせる心地よさに浸った。
何度目かの食事の時に、夕子にとって興味深い話題が上った。
「ここだけの話だけど、この前、上司の三崎さんがぽろっとね……」
周囲に聞こえないような小声で丸木が言った。
「なんて言ったんだい?」
「怖ろしい野心家だ、って。専務室から出てきた後にね」
「つまり、横尾専務のことだと? だとしたら甥にまで怖れられているということか」
「ええ、聞かなければよかったわ」
「そう思うならそうすれば。僕たちも聞かなかったことにするよ、ね、高瀬君?」
「はい」
「秘書は秘密厳守が基本。仲間内でも担当役員の話は一切しない、だよね? さあ、飲み直そう」
三崎は横尾専務の甥、その関係で入社と同時に専務秘書になっていた。横尾は稲村家との親族関係はない。たたき上げでここまでのし上がった。そして、自分の親族の人事に影響を与える力までつけた。
実力のある者は会社の宝で、社を繁栄させていくには欠かせない。しかし、そんなやり手を身近に置くということはもろ刃の剣でもある。徳次郎はそれを承知で横尾をうまく使っているつもりのようだった。
三人の飲み会を終え、同じ方角の新田と夕子は丸木と別れ、二人で帰り道を歩いていた。
「さっきの丸木君の話だけど」
新田がいきなり話し始めた。
「思うに、専務は高齢の社長の後を狙っているんじゃないかな。今がその好機だと。長男の涼介さんとは不仲で追い出してしまった格好だし、外でできた音信不通の子どもも見つからない。そして副社長はおとなしい人だから障害にはならないからね」
夕子は新田の真意がつかめずにただ黙って聞いていた。
「君のことは赤堀室長からおおよそのことは聞いているよ。僕が預かることになったからね。その子どもって君の弟さんだよね?」
「…………」
夕子はこの新田が敵か味方か判断できない。
「君もいろいろと苦労しただろうね」
(この誠実そうな青年は社長の差し金で、私を懐柔しようとしているのだろうか?)
「ああ、それでね、この前、社長の息子さんの涼介さんに会ったんだけど、彼、君に会いたいそうだ」
(弟にとっては異母兄にあたる人物……私に何の用があるというのだろう?)
「心配はいらないよ、涼介さんは良い人だから。社長とは親子とは思えないほど違うタイプで――おっと、失言かな、今の内緒だよ」
その時、夕子はこの人も良い人なのではと思った。自分の直感を信じたい。敵の真っただ中に飛び込んだという気負いが、必要以上に何事にも疑い深くさせているのではないだろうか。
そう思い、あらためて長身の新田を見上げた。すると、それに気づいた新田はやさしいまなざしで夕子を見つめ返した。その目はまるで、大丈夫だよ、と語りかけているようだった。
その新田のはるか頭上には星が輝き、その美しい夜空と新田の笑顔が重なり合って、ひとり敵の陣地で奮闘する夕子にひとときの安らぎを与えているかのようだった。