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九丸(ひさまる)
九丸(ひさまる)
novelistID. 65562
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言いたくて言えない言葉一つ

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《雨の夜》

「わたし雨は嫌いなの。一人でいるのが、とてもいたたまれなくなるから」

彼女の言葉に、僕は言いたくて言えない言葉一つ飲み込む。

愛してるって、そこまで出かかってるのに。




《その夜は雨に》

「佐々木さん、この資料を今日中に仕上げなきゃならないんですが、残業だめですかね」

「はい、はい、そんな気はしてましたよ。その代わりご飯奢ってよね」

「はい。それで手を打ってもらえるなら安いものです」

僕の頼みを佐々木さんはいつも断らない。
だからいつも甘えてしまう自分もどうかと思うが、それも仕方ない。
僕は佐々木さんを好きなのだから。
仕事が終わらないのは本当だが、それが一緒にいたいための口実と言えばその通りだ。

二年前に、佐々木さんが契約社員として入ってきてからの片想い。
残念ながら想いを伝える術を、僕は持ち合わせていない。
元来恋愛ごとが苦手だから。
それはただ臆病者の言い訳に過ぎないけど。

好きになった理由なんて、言葉にすればどうとでも言える。
声が好き。
本人は嫌いだと言っている切れ長の目が好き。
雰囲気が好き。
優しいところが好き。
言葉に出来る表面的な所じゃない。
言葉にできない、別の所に惹かれた。
それは僕にもよく分からないけど。

「竹内君、さっさと終わらせよう! わたしお腹すいてるんだからね」

「はい。僕もお腹すいてるんで、さっさと片しましょう」

佐々木さんは僕のことを『竹内君』と呼ぶ。
単に歳下だからだろうけど、僕の同期のことは『さん』付けで呼んでいる。
だから、ちょっと期待もしてしまう。
僕に親近感を抱いてくれてるのではと。
ただ、頼りないからかもしれないけど。

佐々木さんのおかげで残業も滞りなく終わり、僕らは会社をあとにした。

夜風がとても気持ち良く、風に吹かれて佐々木さんの髪の香りが僕に届く。
優しく、柔らかい香りが僕の心を包んでいく。
好きになったらほんの些細なことでも、こんなに満たされるんだと佐々木さんは気づかせてくれた。

「何食べたいですか? 」

「そうね。今日は魚が食べたいかな。お刺身というよりは焼き魚の気分かな」

「分かりました。じゃあ、『寧々』に行きますか。あそこなら、魚料理一通りあるし」

「そこにする!」

平日の割りに人通りの多い道を、僕らは肩を並べて歩いて行く。
道すがらのとりとめのない会話ですら、僕には心地良い。
並んで歩く僕らの距離。
いつか縮まるんだろうか。
僕の目線より十センチ位低い、佐々木さんの目を見ながら僕は思った。
吸い込まれそうになりながら。

「ちょっと、わたしの目変だと思ってるんでしょう? 」

佐々木さんに言われて、我に帰った。

「いや、そんなことないです! 僕は佐々木さんの細い、いや間違った、切れ長の目は好きです」

「ちょっと本音でたね。今日はお会計覚悟しなよ」

「いや、本当に好きなんですよ。嘘偽りなく。その目が佐々木さんには似合ってます。自信持ってください」

「何でわたしのおめめは、くりっと可愛らしくないのかなあ。親に対する唯一の不満だね」

「いや、僕は似合ってると思うけどなあ」

「ありがとう。竹内君だけだよ、そんなこと言ってくれるの」

何気ない会話に、『好き』という言葉を紛らすことは出来る。
部分的なものだから抵抗はない。
だけど、本質的な『好き』はとても口には出せない。
でも、ちゃんと伝えたい。
あなたが好きですと。
そんな機会をくれるのなら、神様だろうが悪魔だろうが構わない。
ただ、そんな機会が来たとして言えるのか? そんな不安もある。失敗して、今の関係が壊れるのが怖いからだ。
当たって砕けたくはない。
それならいっそのこと、今のままで。
臆病者の僕がいつも囁く。

飲食店が並ぶ通りに入ってすぐ、佐々木さんは立ち止まり、看板を指さした。

「あ、ここでしょ?」

「そうです。意外と会社から近いんですよ」

「竹内君、良く来るの?」

「はい。会社帰りにご飯食べにとか」

「あれ? 誰と来てんのかな。彼女だな」

「いや、彼女いそうに見えないでしょ。大抵男友達かお一人様ですよ」

「ふーん。ま、いいけどね」

「と、とりあえず入りましょう」

暖簾を潜りながら引戸を開けると、女将さんの声と魚を焼いている香ばしい匂いが迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。あら、竹内さん。ようこそいらっしゃいました」

「女将さん、こんばんは。二人なんですけど大丈夫ですか?」

「どうぞ、どうぞ。カウンターと小上がりどちらになさいますか?」

「わたしカウンターがいいです!」

佐々木さんの威勢の良い声に、女将さんが笑いながら答えた。

「はい、カウンター二名様お通しです。それにしても、竹内さん。女性を連れていらっしゃるなんて初めてですね。なんかわたし嬉しくなっちゃったわ」

「へえー、本当に連れて来てないんだね」

「だから言ったじゃないですか。女性は佐々木さんが初めてですよ」

「そっか。わたしが初めての女だね」

「ちょっと、言い方。いろいろ語弊がありますから」

「いやらしいなあ。そんな意味じゃないわよ」

「わ、分かってますよ」

僕らの会話をにこやかに聞いていた女将さんが、そろそろという風にカウンター席に促す。

佐々木さんと食事に行く時、この店は選択肢に入れていなかった。
行き付けに一緒にというのは、なんか自宅に招くのに近い感覚がして、僕の中ではハードルが高かった。
でも、今夜はすんなりと連れてこれた。
佐々木さんの焼き魚が食べたいとの言葉のせいかもしれないが、僕の中の煮詰まった想いが、そろそろハードルを越えろと押したのかもしれない。

カウンターに座るなり、彼女は僕を見て言った。

「うーん、この魚を焼いてる匂い! 食欲そそるねー! 竹内君、いい店知ってんじゃん。何で今まで連れて来てくれなかったのよ。わたしは今ショックを受けているのだよ。君とわたしの仲はその程度だったんだねえ」

「仲って言われても……。それに連れて来なかったわけじゃないですよ。たまたまタイミングが……」

「ふーん。ま、いっか。今日連れて来てもらったしね」

タイミングを見計らって、女将さんがおしぼりを持ってきた。

「お飲み物はどうなさいますか」

「佐々木さん、どうします? 酒いっちゃいますか?」

「竹内君。もちろんだよ。わたしは生ください」

「僕はウーロンハイでお願いします」

「はい。かしこまりました。今日は秋刀魚の良いのが入ってるんですよ。お刺身にしても、焼いても美味しいですよ。ぜひ召し上がってくださいね」

「食べまーす。焼きでお願いします!」

女将さんはありがとうございますと言って、カウンターの中の大将に注文を通した。

「大将、秋刀魚焼きでお願いします」

「はいよ」

大将が切れの良い返事を寄越した。

お客の入りは七割程で、八席のカウンターは僕ら二人だけだ。
仕切りがある店でもないのに、ちょっと二人だけの空間みたいで僕は嬉しくなった。

佐々木さんは、お品書きやカウンター上の梁に張られているオススメを一生懸命見ている。