怪盗・稲藁小僧『憑かれ辻斬り』
「ふぅ……美味かったぜ親父、また寄らしてもらうぜ」
「へい、ありがとう存知やす」
風鈴蕎麦屋の与助はそう言って腰を屈めた。
風鈴蕎麦屋……天秤棒に振り分けた屋台を担ぎ、夜の町を流して暖かい蕎麦を売り歩く、夜中の事、売り声を上げずに、屋台に吊るした風鈴を腰の調子で鳴らして歩いたことからそう呼ばれる。
水桶、七輪、出汁、そば、器、具を担いで歩くのだからかなりの重労働だ。
「一息入れるとしようか……」
客を送り出した与助はそう一人ごちて川の石垣に腰を降ろすと煙管に火をつけた。
だいぶ夜も更け、残る蕎麦もわずか、長屋に戻るまでには売り切れるだろう。
与助は煙管をはたいた後もしばらくそのまま腰掛けていた。
さして広くはない川の対岸を遊び人風の男が通る。
博打で勝ったのだろうか、鼻歌を歌わんばかりの上機嫌、足取りも踊るように軽い。
が、与助のちょうどまん前辺りで、ギョッとしたようにその足元が止まった。
柳の枝に邪魔されて良く見えないが、向かいから来る者に怯えているかのよう……踵を返して逃げようとする、と、柳の陰から現れたのは黒い羽織に黒い頭巾を被った侍、逃げようとする遊び人の背後に素早く駆け寄って刀を振った。
「ぎゃぁ」
たった一声……遊び人はうつぶせに倒れ込んでしばらくもがいていたが、すぐに動かなくなった。
(つ……辻斬り)
茫然とする与助、すると侍が与助に気付いたのか、冷たい目でこちらを見た。
(き……斬られる)
屋台は大切な商売道具だが、そんな重いものを担いでいては逃げ切れない、与助は屋台を置いたまま駆け出し、路地に飛び込んで物陰に身を隠した。
すぐに草履の音が近付いて来た。 そしてしばらくそこらを捜し歩いているようだったが、やがて諦めたのか音は止んだ。
与助がそっと路地から顔を出すと人影はない。
おそるおそる屋台に戻った与助は凍りついた。
屋号の行灯が鋭い刃物で×印に切り裂かれていたのだ……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「よう、どうしたい?」
その後も夜な夜な辻斬りは出た、しかも狙われたのは風鈴蕎麦屋ばかり、与助は恐ろしくて商売に出られず、長屋で布団をかぶって悶々と過ごしていたのだが、そんな与助を訪ねてくる者があったのだ。
遊び人の新吉、夜な夜な鉄火場へ出かけては与助の蕎麦を贔屓にしてくれ、すっかり馴染みになって言葉を交わすようになった男だった。
(この男になら……)
鉄火場へ通いつめる遊び人は少しは腕に覚えがある男が多い、しかしそれはあくまで喧嘩でのこと、そこへ行くと稲造はちょっと違っている、腕っ節を誇るような事もなくいつでも人懐こく陽気に振る舞う男だ、しかしその身のこなしは異様に軽く、只者ではないのではないかと感じていたのだ。
「実は……」
与助はあの夜見てしまったことをすっかり話した。
「ふうん、じゃ、お前さん、辻斬りの人相は見ていねぇんだな?」
「へぇ、頭巾ですっかり顔を隠してましたからな」
「羽織に何か紋のようなものはついてなかったのかい?」
「紋は付いておりませんでしたな、ただ、背が高い侍で五尺五寸……いや、六寸はありましたかな」
「ほう、そいつはでけぇな……けどそれくらいの侍ならごまんといらぁ、他に何か憶えちゃいねぇかい?」
「そう言えば……刀がずいぶんと長ぅございましたな」
「どのくらい?」
「三尺は裕に超えていたように思いますな、反りも浅かったような……」
「そいつは確かに珍しいな……親父さん、ものは相談だが着物と屋台を貸しちゃくれねぇか?」
「どうなさるおつもりで?」
「俺がお前ぇに化けて商売に出てみるのよ」
「そいつは危ねぇ……」
「だけどこのままじゃお前さんは商売に出られねぇだろう? 俺も美味ぇ蕎麦が食えねぇと困るんだ」
「それだけの理由で?」
「それだけじゃねぇや、斬られたのは遊び人だったんだろう? 俺だっておちおち遊びにも出られねぇからな」
「それでも……」
「まぁ、俺も侍は嫌ぇでよ、まして辻斬りだなんて非道な真似をする野郎だ、遊び人が斬られたとあっちゃ、ひとつぎゃふんと言わせてぇのよ……この通りだ、頼まぁ」
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「重いもんなんだなぁ、あの親父は良くこんなものを担いで商売できるもんだ」
その夜、風鈴蕎麦屋の格好で屋台を担いで歩く稲造、『蕎麦をくんな』と言われても出来ないので水桶も出し汁も空、それでも天秤棒は肩にずっしりと食い込む。
(千両箱なら担ぎ甲斐もあるってもんだが……おっと、来なすったかな)
後ろから大またで近付いて来る草履の音。
新吉が振り向くと侍は正に束に手を掛けて刀を抜こうとしている、が、むざむざとやられるような新吉ではない、さっと飛びのいて刀をかわした。
「なるほど、こいつは長ぇや、こりゃ大太刀ってもんだろう? 今時珍しいもんだ」
「貴様……何奴っ」
「名乗るほどのもんじゃねぇよ、見ての通りの遊び……いや、そういや蕎麦屋に化けてたんだっけな」
「あの時の蕎麦屋とかかわりのある者だな?」
「まあ、親父の蕎麦を贔屓にしてたってだけだがね」
「ふざけたことを……そればかりの縁で命を捨てると申すか」
「確かにそれっぱかりの縁しかねぇけどよ、命をやるなんて言った覚えはねぇぜ」
「言おうが言うまいが、命は頂く」
侍は大太刀を大上段に振りかぶって振り下ろして来た。
大太刀は戦国の世にしばしば用いられた太刀、騎乗の武士が徒士の侍を切り捨てるのに適した得物だ、長いものでは七尺ほどもあったと言うが、この侍が振るのは3尺2寸ほどのもの、普通の刀が2尺3寸ほどだからそれでもひと回りもふた回りも長い、しかしその長さゆえに重い、まして太平の世に鍛造された華奢な刀ではなく、実戦を見据えて鍛えられた代物、重さは普通の刀の比ではない、侍は確かに身の丈五尺六寸、がっちりしていて力もありそうではあるが、大太刀を振り回せば隙も生れる。
新吉は振り下ろされた大太刀をひらりとかわすと、懐に呑んでいた匕首で伸びきった右腕にさっと斬りつけた。
「うがっ」
侍が肘を抑えて膝をついた。
「肘の腱を切ったんだ、もうお前さんは生涯右腕を使えねぇよ、辻斬りも今夜で終いだ」
「下郎っ!」
「確かに俺は下郎だがね、辻斬りなんざしやしねぇよ、俺が下郎ならお前さんはなんだい? 鬼か物の怪の類じゃねぇのか? 俺ぁあんまり人様に威張れるようなこたぁしてきちゃいねぇが、殺しだけはしねぇと決めてるんだ、まあ、お前ぇももう刀は振れなくなっちまったからな、これで見逃してやらぁ……」
新吉はひょいと屋台を担ぐと駆け出した。
血が騒いでいて天秤棒が肩に食い込むのもすっかり忘れて……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
数日後、町はある噂で持ちきりになった。
高畠宗十郎と言う腕に憶えのある旗本が辻斬りと斬り合って腕を斬られたと言うのだ、しかし高畠もさるもの、辻斬の腕も同じように斬った、だからもう辻斬りは出ないんだ、と。
事実、毎夜のように出ていた辻斬りもこの数日は出ていない。
「へい、ありがとう存知やす」
風鈴蕎麦屋の与助はそう言って腰を屈めた。
風鈴蕎麦屋……天秤棒に振り分けた屋台を担ぎ、夜の町を流して暖かい蕎麦を売り歩く、夜中の事、売り声を上げずに、屋台に吊るした風鈴を腰の調子で鳴らして歩いたことからそう呼ばれる。
水桶、七輪、出汁、そば、器、具を担いで歩くのだからかなりの重労働だ。
「一息入れるとしようか……」
客を送り出した与助はそう一人ごちて川の石垣に腰を降ろすと煙管に火をつけた。
だいぶ夜も更け、残る蕎麦もわずか、長屋に戻るまでには売り切れるだろう。
与助は煙管をはたいた後もしばらくそのまま腰掛けていた。
さして広くはない川の対岸を遊び人風の男が通る。
博打で勝ったのだろうか、鼻歌を歌わんばかりの上機嫌、足取りも踊るように軽い。
が、与助のちょうどまん前辺りで、ギョッとしたようにその足元が止まった。
柳の枝に邪魔されて良く見えないが、向かいから来る者に怯えているかのよう……踵を返して逃げようとする、と、柳の陰から現れたのは黒い羽織に黒い頭巾を被った侍、逃げようとする遊び人の背後に素早く駆け寄って刀を振った。
「ぎゃぁ」
たった一声……遊び人はうつぶせに倒れ込んでしばらくもがいていたが、すぐに動かなくなった。
(つ……辻斬り)
茫然とする与助、すると侍が与助に気付いたのか、冷たい目でこちらを見た。
(き……斬られる)
屋台は大切な商売道具だが、そんな重いものを担いでいては逃げ切れない、与助は屋台を置いたまま駆け出し、路地に飛び込んで物陰に身を隠した。
すぐに草履の音が近付いて来た。 そしてしばらくそこらを捜し歩いているようだったが、やがて諦めたのか音は止んだ。
与助がそっと路地から顔を出すと人影はない。
おそるおそる屋台に戻った与助は凍りついた。
屋号の行灯が鋭い刃物で×印に切り裂かれていたのだ……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「よう、どうしたい?」
その後も夜な夜な辻斬りは出た、しかも狙われたのは風鈴蕎麦屋ばかり、与助は恐ろしくて商売に出られず、長屋で布団をかぶって悶々と過ごしていたのだが、そんな与助を訪ねてくる者があったのだ。
遊び人の新吉、夜な夜な鉄火場へ出かけては与助の蕎麦を贔屓にしてくれ、すっかり馴染みになって言葉を交わすようになった男だった。
(この男になら……)
鉄火場へ通いつめる遊び人は少しは腕に覚えがある男が多い、しかしそれはあくまで喧嘩でのこと、そこへ行くと稲造はちょっと違っている、腕っ節を誇るような事もなくいつでも人懐こく陽気に振る舞う男だ、しかしその身のこなしは異様に軽く、只者ではないのではないかと感じていたのだ。
「実は……」
与助はあの夜見てしまったことをすっかり話した。
「ふうん、じゃ、お前さん、辻斬りの人相は見ていねぇんだな?」
「へぇ、頭巾ですっかり顔を隠してましたからな」
「羽織に何か紋のようなものはついてなかったのかい?」
「紋は付いておりませんでしたな、ただ、背が高い侍で五尺五寸……いや、六寸はありましたかな」
「ほう、そいつはでけぇな……けどそれくらいの侍ならごまんといらぁ、他に何か憶えちゃいねぇかい?」
「そう言えば……刀がずいぶんと長ぅございましたな」
「どのくらい?」
「三尺は裕に超えていたように思いますな、反りも浅かったような……」
「そいつは確かに珍しいな……親父さん、ものは相談だが着物と屋台を貸しちゃくれねぇか?」
「どうなさるおつもりで?」
「俺がお前ぇに化けて商売に出てみるのよ」
「そいつは危ねぇ……」
「だけどこのままじゃお前さんは商売に出られねぇだろう? 俺も美味ぇ蕎麦が食えねぇと困るんだ」
「それだけの理由で?」
「それだけじゃねぇや、斬られたのは遊び人だったんだろう? 俺だっておちおち遊びにも出られねぇからな」
「それでも……」
「まぁ、俺も侍は嫌ぇでよ、まして辻斬りだなんて非道な真似をする野郎だ、遊び人が斬られたとあっちゃ、ひとつぎゃふんと言わせてぇのよ……この通りだ、頼まぁ」
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「重いもんなんだなぁ、あの親父は良くこんなものを担いで商売できるもんだ」
その夜、風鈴蕎麦屋の格好で屋台を担いで歩く稲造、『蕎麦をくんな』と言われても出来ないので水桶も出し汁も空、それでも天秤棒は肩にずっしりと食い込む。
(千両箱なら担ぎ甲斐もあるってもんだが……おっと、来なすったかな)
後ろから大またで近付いて来る草履の音。
新吉が振り向くと侍は正に束に手を掛けて刀を抜こうとしている、が、むざむざとやられるような新吉ではない、さっと飛びのいて刀をかわした。
「なるほど、こいつは長ぇや、こりゃ大太刀ってもんだろう? 今時珍しいもんだ」
「貴様……何奴っ」
「名乗るほどのもんじゃねぇよ、見ての通りの遊び……いや、そういや蕎麦屋に化けてたんだっけな」
「あの時の蕎麦屋とかかわりのある者だな?」
「まあ、親父の蕎麦を贔屓にしてたってだけだがね」
「ふざけたことを……そればかりの縁で命を捨てると申すか」
「確かにそれっぱかりの縁しかねぇけどよ、命をやるなんて言った覚えはねぇぜ」
「言おうが言うまいが、命は頂く」
侍は大太刀を大上段に振りかぶって振り下ろして来た。
大太刀は戦国の世にしばしば用いられた太刀、騎乗の武士が徒士の侍を切り捨てるのに適した得物だ、長いものでは七尺ほどもあったと言うが、この侍が振るのは3尺2寸ほどのもの、普通の刀が2尺3寸ほどだからそれでもひと回りもふた回りも長い、しかしその長さゆえに重い、まして太平の世に鍛造された華奢な刀ではなく、実戦を見据えて鍛えられた代物、重さは普通の刀の比ではない、侍は確かに身の丈五尺六寸、がっちりしていて力もありそうではあるが、大太刀を振り回せば隙も生れる。
新吉は振り下ろされた大太刀をひらりとかわすと、懐に呑んでいた匕首で伸びきった右腕にさっと斬りつけた。
「うがっ」
侍が肘を抑えて膝をついた。
「肘の腱を切ったんだ、もうお前さんは生涯右腕を使えねぇよ、辻斬りも今夜で終いだ」
「下郎っ!」
「確かに俺は下郎だがね、辻斬りなんざしやしねぇよ、俺が下郎ならお前さんはなんだい? 鬼か物の怪の類じゃねぇのか? 俺ぁあんまり人様に威張れるようなこたぁしてきちゃいねぇが、殺しだけはしねぇと決めてるんだ、まあ、お前ぇももう刀は振れなくなっちまったからな、これで見逃してやらぁ……」
新吉はひょいと屋台を担ぐと駆け出した。
血が騒いでいて天秤棒が肩に食い込むのもすっかり忘れて……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
数日後、町はある噂で持ちきりになった。
高畠宗十郎と言う腕に憶えのある旗本が辻斬りと斬り合って腕を斬られたと言うのだ、しかし高畠もさるもの、辻斬の腕も同じように斬った、だからもう辻斬りは出ないんだ、と。
事実、毎夜のように出ていた辻斬りもこの数日は出ていない。
作品名:怪盗・稲藁小僧『憑かれ辻斬り』 作家名:ST