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のしろ雅子
のしろ雅子
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未生怨(みしょうおん)下巻

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「もう、ママは追ってこない…ママの来れない所に行くんだ…まーちゃんと…祈だけ…二人だけ…いっし…ょ…」息つくように、熱い吐息で呟いた。
「…日向と…枯れ草の匂いがする…まーちゃんの匂い…幸せの匂いだ……」
 しんしんと降り続く雪、木の枝から垂雪がバサッと落ちると、呼吸音が途切れ、首に巻きつかれた祈之の片腕がだらりと落ちた…
 身体の重みが正夫の背中に掛かかった…正夫は視線を前に当てたまま歩き続ける。
 唇が微かに震え、一筋の涙が溢れるように頬を伝った。
「向こうに着いたら起きるんだよ…祈…まだ行かないんだよ、一緒に行くんだよ…一人で行くな!…もう…絶対離れない……」
 正夫は尚、雪深く歩みを進める…降りかかる雪は重みを増し、深さも増した、一面雪の中、正夫は唯ひたすら滝を目指した。 

正夫は「まーちゃん…」と呼ぶ声を聞いた。
 一人の少年が正夫を追い越すように走っていく…それは鬱蒼とした森の陽盛りの頃、後ろを振り向いて
「早く行こ!こっちだよまーちゃん…」
 少年はその淫靡な愛らしさで笑った。
 帽子を被って真っ黒に日焼けした少年の頃の愛らしい祈之で“早く早く!”と手を振った。
「危ないよ!祈、そんなに走っちゃ…」正夫は思わず声を掛ける…
 少年の頃の正夫が追うように横を走り抜けた。燥ぎ回る祈之に手を焼くように追いかける。滑って転ぶ祈之に走り寄ると抱き上げて泥を払った。
「僕ね、大きくなったらまーちゃんのお嫁さんになるよ…」
 甘える祈之に
「ああ、そお…」
 と取り合わない正夫は、祈之が転ばないように抱き寄せ
「それでね…そしてね」
と盛んに話し掛ける祈之に頷きながら森閑とした森の道へと消えていった…。

 あの頃…二人はどれほど慈しみ合って過しただろうか。
 二人の消えた道を深い雪が閉ざすのをジーッと見つめた。
 雪は益々深くなり行く手を阻んだ…気が遠くなるような疲労感で膝が折れた…
 その時…天から轟くような滝の流れる音を聞いた
 水飛沫を上げ、絶える事無くその水は流れ落ちていた…。
「祈…滝だ…祈!ほら起きて…」
 その横には祈之が永遠の二人の愛の証のように事あるごとに口にした、相合傘に囲まれた…まーちゃん、大好き…祈、大好きと書かれた切り株が、雪から顔を出していた。

 その頃、病院は警察に通報し大変な騒ぎになっていた。病院の管理体制が問題になったが呼吸困難に陥って末期状態の患者が一歩たりとて、とても一人で歩けるわけがなく、近くに行き倒れているのではないかと捜索が行われていた。
行くとしたら正夫の所…と確信に満ちた亜子の一言で、医師たちは有り得ないと首を振ったが「いいえ…あの子は行ったわ、正夫のとこへ行った」と呟いた。正夫の故郷に連絡が入り、連絡を受けて消防団などの村人が山に入り、村人により二人の遺体は発見された。
 雪深くその奥に“もし、来たとしても、まさか…ここまでは来れないだろう…”と村人が引き返し掛けた時、新雪に吹き付けられ、不自然に隆起した場所を遅れを取った一人の男が、急ぎながらかんじきの足で押し、行きかけてそして、足を止めた…。
 胸の中に毛布で包んだ祈之を掻き抱くように抱きしめ座った正夫と、抱き守られた祈之の遺体が消防団の手で数時間後掘り起こされた。
 正夫のその顔は、眉毛からも睫からもそして顎先からも氷柱が下がり壮絶な死顔であったが、その伏せられた眼差しは優しく胸の中の祈之を見つめていた。
 正夫に守られた祈之は、穏やかな死顔を胸に埋め安らかに幸せそうであった。
 雪から守るように祈之を掻き抱き、命絶えたその姿は慈愛に満ち、まるでキリストを抱く聖母マリア像のようだった。
 そこは登山道より少し逸れた大木の下で、目指した滝からはだいぶ離れ、滝は凍り付いてその流れを止めていた。
発見の知らせを受けた病院の医師たちはどうしてあそこまで行けたか分からないと、一様に首を傾げ、有り得ない不思議な話と、後々…噂された。

 
 亜子が連絡を受けたのは、楽屋で顔を造ってる真っ最中で、眉尻を上げる黒ずみを引く手を一瞬止め、その隈取られた目の奥から得も言われぬ光がスーッと射したが
「見つかった…そう……正夫も…そう…」と呟くと、顔を仕上げ大袈裟なほど裾の拡がった、中世の王女の出で立ちで、前を見据えると舞台へと向かった…。
 自分の出生の由来について抱いた未生怨に悩まされた息子に、刺し殺される母親役が好評を博し、今日も息子役の少年が母親役の亜子に詰め寄り、刺し殺すクライマックスシーンが始まろうとしていた。
 「何故、貴方は僕を身篭ったのだ…貴方のその手で掻き出して汚物入れに棄ててしまえばよかったのに…お母さん…貴方は何故僕を産んだんだ!…」
 少年役の役者の絶叫が大きく、劇場の隅々まで響き渡った…。


                おわり