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のしろ雅子
のしろ雅子
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未生怨(みしょうおん)下巻

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 マネージャーは自分の連絡のつく電話番号を添えるとカードをベットサイドの机の引き出しにしまった。
 看護婦が大きな花束を数個抱え、病室に入ってきた。ビニールが掛かったままの花束が病室の色の無い空間に手際よく並べられた。
「これね、お母様からですよ。私たちにもいっぱいお花やお菓子頂きましたよ。廊下にもいっぱい置いてありますよ…綺麗ですよ」看護婦は独り言のようにジッと空を見つめる祈之に話しかけた。
 祈之は“公演が始まったな…”と思った。いつも亜子は贈られる花束の数に悲鳴をあげ、スタッフに配り、鎌倉に送り届けてきた。病室に飾られた幾つもの花束は、まるで棄て場所のように虚飾の毒々しさでその芳香を放っていた…。

その日、布団の中は毛布やガウンやバスタオルなどが詰められ、心電図モニターの位置が入口から見えないようにチョットずれ、そのコード、点滴の針など布団の中のタオルに突き刺さり祈之の姿は病室から消えていた。
 重く雲の立ち込めた空の下、北風の吹きすさぶ寒い昼下がり、あの森林の町は大雪の頃である。


鎌倉はどうなってるか…祈之が「まーちゃん…まーちゃん…」と泣きながら歩いて来る夢ばかり見て、情報の手段も考え付かないまま…ただ日が過ぎていた。

 先程まで吹雪いていた風がぴたりと止んでいた。怖いような静けさの中、砲声のような雷鳴が遠くで鳴った…雷の轟く日は大雪になる日が多いと聞いていた。  
正夫はその場に座り込み、赤々と燃え上がる火を茫んやり眺め、窓の外又雪の降りそうな空を見つめた。
うたた寝ていたのか…「まーちゃん」と呼ぶ声で目が覚めた…。
 と、人の足音が聞こえたような気がした…。
 耳を澄ますように一点を見つめると、瞬間立ち上がり、建て付けの悪い戸を力いっぱい引き開け外に飛び出した。
 確かに聞こえるあの足音、引き摺るように歩いて来る。正夫は下る雪道に走り出た。
 住宅の点在する下の道までは除雪が行われていたが、人里離れた山道に続くこの道は、一面真っ白な雪で別世界であった。一点蠢くように祈之が手を上げ、「まーちゃん…」と叫んでる姿が目に入った…。
  祈だ…それは紛いも無く祈之だった。
「祈!…」正夫は大きな声で叫び、転げるように雪を掻いて走った。
 正夫は雪を蹴り上げ駆け寄ると蹲る祈之を抱き上げた。
「まーちゃん…来た」祈之は目を大きく潤ませて大きなマスクの下喘ぐように呟いた。
「一人でよく来れたね…」
「毎日地図見てたもの…分かるよ…目瞑ってだって来れる…」と、微かに笑った。
 正夫は胸の中で苦しげに喘ぐ祈之のマスクを外そうと手を掛けると
「まーちゃん取らないで…僕、病気になちゃったよ…」
 得も言われぬ絶望の眼差しで、正夫を見つめた。
「病気?風邪…風邪だろ?…」
「ううん…肺結核だって…まっきの」
「肺結核?お医者さんに診てもらったの?」
「僕ね…階段で…血を吐いて…気が付いたら病院だった…」
 正夫は愕然とした。
 コンコンと正夫の胸の中で抑えるように咳き込む祈之を思い出した。
「まーちゃんに言われた通り、早く…薬飲めばよかった…」 
 正夫は何故あの時病院に連れて行かなかったんだろう、何故早く気付いて やれなかったんだろうと、自責の念に囚われ、その病魔に犯された怠い身体であの一年彷徨い歩いていたのかと、居所が無いように暗い表情で 立ち尽くす祈之を思い出し、その痛ましさに胸が詰まった。
「まーちゃん…まっきって、終わりって事だよね?…」 
「…誰が言ったの?」
「ママ…友達に話しているのが…聞こえたんだ。貧乏人の病気だって恥ずかしいって…今死んでもおかしくないって」
 亜子の言いそうな事である…
その眼差しは茫んやりと熱を帯び、肩で息つく度にゼーゼーと微かな音がした。そして見つめるその目は弱々しく、深い絶望感に沈んでいた…。
「マスクしてるから余計苦しいんだよ」
「…でも…移るんだ、僕の病気…」
「僕はね、祈の身体中の血を飲んだって大丈夫だよ」正夫がマスクを外すと血が滲んで、荒い息を繰り返す祈之の口元からぷーんと血の匂いがした。
 祈之を背負い家へと向かった。悲しいほど軽い… 
土間の上がり框のストーブの前に祈之を座らせると、その前にしゃがみ込み濡れた靴と靴下を脱がせその冷えきった素足を両手で包み込む様に擦った…。
 祈之は正夫を見つめた。その手も、眼差しも、白い歯の零れる唇も、分厚く逞しい胸も全て、ずーっとずーっと僕のものだ。でも僕は死ぬんだ…その悲しみの眼差しで限りある命を燃やし尽くすように、正夫を見つめ続けた…。
 正夫はその眼差しを見つめ返し暫し無言であった。
「恐くないよ…ずっと側にいるよ…もう、離れないよ…」
「本当?…これからも一緒?側にいる?」
祈之はその弱い眼差しに嬉しそうに微かな光を湛えた…。
「もうママも邪魔できないね…」
正夫の頷くのを見て、祈之はふーと安堵の笑みを浮かべた。
 きっと祈は遣って来ると、心のどこかでは待っていた。
 その祈之は、末期の肺結核という病気に侵されていた…。

「タイムマシーンに乗って昔のまーちゃんと祈に会いに行きたい…幸せだったあの頃…いつもまーちゃんにくっ付いてた、離れる事無く…駆けずり回ったあの頃に…この辺もいっぱい…走り回ったよね…帰りはいつも…くたびれちゃって…歩くの嫌がった僕をずーっとまーちゃん…背負って歩いたよね…今でも…あの背中…覚えてる…まーちゃんの背中…」 
 正夫はジーッと見つめ祈之の頬を擦り額に手を当てた。燃えるように熱い…もう猶予は無かった。
 その眼差しは茫んやりと遠い昔を見つめていた…。
「あの滝…。まーちゃん大好きって書いた…切り株…まだあるかな…」
「あるよ…」
「行ってみたいな…滝…切り株…見に…」
「じゃあ、行こう…これから行こう…」
「…本当?…」
 祈之は一瞬、目を輝かせたが、直ぐ光は失せた…。
「でも…もう…駄目だ…祈はもう行けない…」
 その眼差しは焦点が曖昧となり、熱を帯び、既に時間に限りがある事を思わせた…。
「大丈夫、祈は着くまで寝てれば良いよ…」
 事あるごとに、もう一度滝を見に行きたいと懐かしがった祈之に本当に見せてやりたいと思った。
今は深い雪の中である。
過ぎる時間に急かされる様に正夫は火の始末をし終えると、祈之をしっかりと自分の背に袢纏紐で括りつけ、毛布で二人の身体を包み壁に掛かったかんじきを穿いて外に出た。二人の行く手にはしんしんと粉雪が舞いだし、これで足跡は消えるだろうと思った。正夫は振り仰ぐように歩き出し、振り返り我が家を見つめると、もう戻ることの無い深い山の中へと入っていった。
 凍りついた根雪の上に、又新雪が吹き付ける。
  微かな雪明りを頼りに、正夫は一歩、又一歩と、なお深く足を進ませた。
 重い雪を受け、弓なりに反った竹がビシッと音を立て雪をはねのけると雪煙を上げた。
 暫く時間が経過し、背中で荒い呼吸を繰り返す祈之は掠れた声で「まーちゃん…大好きだった…」と呟いた  
「知ってるよ…分ってるよ…」
 正夫は降り続く雪の中、重みを乗せて一歩、一歩、歩いて行く。