豆腐男
一
それは奇怪な光景だった。
四十の男が深夜の決まった時刻に来店し、その日売れ残った豆腐ばかりを買っていく。ちなみに、四十というのは年恰好のことだ。男の人数ではない。
どんな男なのか?
容貌魁偉たるわけではなく、怪しげな風体もしていない。
丁寧に刈り揃えられた頭。清潔できっちりした会社員風の身なり。
だが、どこかぎくしゃくした歩き方。レジで応対されるときの物言いもしゃちこばった「ですます調」で通し、打ち解ける隙のないものだった。
終日営業のコンビニ「ドラッグ24」に勤める朝霞カスミ(あさか・かすみ)はある日、まだ二十代の若さの店長を前に、当然の疑問を口にしてみた。
「あの人、毎日あんなに豆腐ばっかり買い込んでどうすんのかしら?」
「決まってんだろ。食べるのさ」
「食べるって……やだ、こわ~い」
「おまえだって豆腐は食べるだろ」
「食べるけど、前の日の売れ残りじゃ、いや」
しかも、この店の。とまでは言葉に出して言えない。
カスミも以前、男が買うのとおなじ銘柄の豆腐を、残業のご褒美に店長から分けてもらったことがある。
カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
いかにも見栄えがよく、味もよさそうだ。
すっかり騙されたカスミだが、口一杯に頬張った途端、味覚機能が急停止、噴き出しそうになった。
まずかったのだ……たとえようもないくらい。
一丁十円でも金輪際求めようという気になれるものではない。
それがあの男は、まるでそれだけが目当てのようにやって来ては、見切り品コーナーに並べられた数だけ、多い時で五丁から七丁もの賞味期限ぎりぎりになった『美味い豆腐』を買い込んでいく。
そういえばこの男、豆腐にかぎらず、売れ残りの商品しか買わない。
賞味期限が過ぎ、半額になったパンや弁当、めん類、菓子や果物、乳製品に卵……間違っても、普通の値札が付いた品物を選びなどしないのである。
男の買い物はこんな具合で、いつもカゴいっぱいの品物をカウンターに持ってくるくせに、払われる代価は驚くほど低額なのだ。
カスミにはこんな仕方の買い物は無理だった。ある意味、男には一目置かねばならない。
店内での男の態度には緊張感があった。切迫感と言い換えてもいい。
パチプロが店中の台の釘をチェックする性急さで、安値札の付いた品はないかと目を光らせながら陳列棚の間を歩きまわり、店内一周してしまうのである。
普通の客なら、コンビニごときに並べられた商品をこうまで真剣な眼差しで追ったりはしない。
なんというか、買い物を楽しむという余裕がまるで見られないのだ。
「万引きやってんじゃねえのか?」
ついに不審に思った店長が、防犯ビデオで男の店内での行跡をチェックしてみても、法的に逸脱した振る舞いを確かめることはできなかった。
してみるとあの男は、店にそれなりの利益をもたらす客、それも常連の客ということになるだろう。
ただ、毎夜日課のように同じ時刻に訪れては、豆腐をはじめ見切り価格の品物ばかりを漁っていくところが常人と隔たっているのだった。
二
カスミは、繊細な眉根の皺ひとつまで計算された愛らしいつくり笑いと、本音を出したときの子供っぽい、庇護欲をそそる無邪気さとで男どもに受けのよい娘だった。
二十歳に達していたが、体つきも声もしゃべり方も、なお十代の少女のように見えた。
甘えが抜けきらず、なにもかもを、立場が上の者の指示にまかせなければ安らげないところがある。
当然、恋を語る相手も、自分より人生の場数をこなした先達として導いてくれる存在でなければならなかった。
応募のとき、こんなカスミと対照的に、受けた教育も立派なら職歴も豊か、受け答えがはきはきしており、しかも体力にも勝る、要するにしっかりした感じのする娘も面接に来ていた。
普通の人選の尺度なら放ってはおかれないはずだが、そちらのほうは採用にはならなかった。
小さいながら我が城の主でありたい店長氏にとって、かような従業員では優秀すぎて頭が上がらぬことになり、具合が悪かったのである。
こういう男には根本的な経営感覚が欠落している。
だから、店の売り上げはあまりよろしくなかった。周辺に一軒だけのコンビニエンスということで客足は確保されるものの、将来性は閉ざされていた。
店の切り盛りは店長のほか、アルバイトのカスミ一人きりで間に合わせられたのだ。
ところでカスミは、近頃めずらしい、うれしいときには慎ましやかだが、怖い場面では思いきり大げさに叫び立てる娘だ。
そんな彼女がある朝、店の前のゴミ箱を掃除しようと外に出たところ、おぞましいものを発見してしまったのである。
「きゃーーっ!」
カスミは、すくみ上がるという反応を示したばかりか、甲高い悲鳴までを上げ、驚きの感情を店内に伝えた。ひとりではこの衝撃に耐えられなかったのだ。
店長がすっ飛んできた。
「なんだ、なんだ?」
「入口、入口のところ……」
おお! 店からすぐ出たところに、なんと嘔吐物が、それも人間の嘔吐物がぶちまけられている。目を覆いたくなるほど大量にだ。
「あれあれ、きたねえなあ。どっかの酔っ払いがやりやがったんだな」
「ちがう。オヤジ……あのオヤジよ。毎日、豆腐ばっかり買っていく」
「あのオヤジのゲロだって、どうしてわかる?」
一目でわかる。
おぞましき吐瀉物はすべて、人の口を通過し、いったん胃袋に滞留したとおぼしき豆腐のカケラばかりによって成り立っているからだ。
だけど、あの男はなぜ? なぜわざわざ、店の前まできて嘔吐していったのだろう?
疑問がカスミの頭をよぎったとき、今度は、ゲロよりもっと恐ろしいもの、ゲロをぶちまけた男そのものが視界の中にあることを認めねばならなくなった。
向こうの薄暗がりに潜み、こちらをうかがう気配がする。
ふたたび盛大に悲鳴をとどろかせた。
「きゃーーっ!」
彼女はわれ知らず、店長にしがみついた。
「どうした?」
「あそこに……豆腐男が」
「いないじゃないか」
店長の胸に伏せていた顔をカスミが恐るおそる上げ、目を凝らしてみると……。
たしかに豆腐男は消えていた。
三
カスミの見間違いだったのか? そんなはずはない。現に、あの男にしか吐くことのできない代物がここにある。
店長はいやそうな顔でそれを処理しながらも、とくに切迫した脅威は感じていない様子だ。店長にはもっと危機意識を持ってもらいたかったのに。
カスミは、豆腐男の異常性を訴えずにいられなかった。
「あの人、変よ。ぜったい、変。もう、妖怪かエーリアンだから」
「ただの客だよ。おとなしく買い物していくだけの」
「でも、それ……」
「おとなしくゲロしていっただけだろ。きっと胃の調子が悪かったんだ。こんなところでやっちまい、決まり悪くて逃げたのさ」
「お店の前なのよ。そんな盛大に吐いちゃって、だまって逃げたら困るじゃないの」
「今度、言っとくよ」
「もう、お店に入れないで」
「もう、よせよ」
店長がこうも常識寄りな見方をするのは、きっと自分が狙われてる実感がないからなのだろう。いい気なものだとカスミは思う。
それは奇怪な光景だった。
四十の男が深夜の決まった時刻に来店し、その日売れ残った豆腐ばかりを買っていく。ちなみに、四十というのは年恰好のことだ。男の人数ではない。
どんな男なのか?
容貌魁偉たるわけではなく、怪しげな風体もしていない。
丁寧に刈り揃えられた頭。清潔できっちりした会社員風の身なり。
だが、どこかぎくしゃくした歩き方。レジで応対されるときの物言いもしゃちこばった「ですます調」で通し、打ち解ける隙のないものだった。
終日営業のコンビニ「ドラッグ24」に勤める朝霞カスミ(あさか・かすみ)はある日、まだ二十代の若さの店長を前に、当然の疑問を口にしてみた。
「あの人、毎日あんなに豆腐ばっかり買い込んでどうすんのかしら?」
「決まってんだろ。食べるのさ」
「食べるって……やだ、こわ~い」
「おまえだって豆腐は食べるだろ」
「食べるけど、前の日の売れ残りじゃ、いや」
しかも、この店の。とまでは言葉に出して言えない。
カスミも以前、男が買うのとおなじ銘柄の豆腐を、残業のご褒美に店長から分けてもらったことがある。
カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
いかにも見栄えがよく、味もよさそうだ。
すっかり騙されたカスミだが、口一杯に頬張った途端、味覚機能が急停止、噴き出しそうになった。
まずかったのだ……たとえようもないくらい。
一丁十円でも金輪際求めようという気になれるものではない。
それがあの男は、まるでそれだけが目当てのようにやって来ては、見切り品コーナーに並べられた数だけ、多い時で五丁から七丁もの賞味期限ぎりぎりになった『美味い豆腐』を買い込んでいく。
そういえばこの男、豆腐にかぎらず、売れ残りの商品しか買わない。
賞味期限が過ぎ、半額になったパンや弁当、めん類、菓子や果物、乳製品に卵……間違っても、普通の値札が付いた品物を選びなどしないのである。
男の買い物はこんな具合で、いつもカゴいっぱいの品物をカウンターに持ってくるくせに、払われる代価は驚くほど低額なのだ。
カスミにはこんな仕方の買い物は無理だった。ある意味、男には一目置かねばならない。
店内での男の態度には緊張感があった。切迫感と言い換えてもいい。
パチプロが店中の台の釘をチェックする性急さで、安値札の付いた品はないかと目を光らせながら陳列棚の間を歩きまわり、店内一周してしまうのである。
普通の客なら、コンビニごときに並べられた商品をこうまで真剣な眼差しで追ったりはしない。
なんというか、買い物を楽しむという余裕がまるで見られないのだ。
「万引きやってんじゃねえのか?」
ついに不審に思った店長が、防犯ビデオで男の店内での行跡をチェックしてみても、法的に逸脱した振る舞いを確かめることはできなかった。
してみるとあの男は、店にそれなりの利益をもたらす客、それも常連の客ということになるだろう。
ただ、毎夜日課のように同じ時刻に訪れては、豆腐をはじめ見切り価格の品物ばかりを漁っていくところが常人と隔たっているのだった。
二
カスミは、繊細な眉根の皺ひとつまで計算された愛らしいつくり笑いと、本音を出したときの子供っぽい、庇護欲をそそる無邪気さとで男どもに受けのよい娘だった。
二十歳に達していたが、体つきも声もしゃべり方も、なお十代の少女のように見えた。
甘えが抜けきらず、なにもかもを、立場が上の者の指示にまかせなければ安らげないところがある。
当然、恋を語る相手も、自分より人生の場数をこなした先達として導いてくれる存在でなければならなかった。
応募のとき、こんなカスミと対照的に、受けた教育も立派なら職歴も豊か、受け答えがはきはきしており、しかも体力にも勝る、要するにしっかりした感じのする娘も面接に来ていた。
普通の人選の尺度なら放ってはおかれないはずだが、そちらのほうは採用にはならなかった。
小さいながら我が城の主でありたい店長氏にとって、かような従業員では優秀すぎて頭が上がらぬことになり、具合が悪かったのである。
こういう男には根本的な経営感覚が欠落している。
だから、店の売り上げはあまりよろしくなかった。周辺に一軒だけのコンビニエンスということで客足は確保されるものの、将来性は閉ざされていた。
店の切り盛りは店長のほか、アルバイトのカスミ一人きりで間に合わせられたのだ。
ところでカスミは、近頃めずらしい、うれしいときには慎ましやかだが、怖い場面では思いきり大げさに叫び立てる娘だ。
そんな彼女がある朝、店の前のゴミ箱を掃除しようと外に出たところ、おぞましいものを発見してしまったのである。
「きゃーーっ!」
カスミは、すくみ上がるという反応を示したばかりか、甲高い悲鳴までを上げ、驚きの感情を店内に伝えた。ひとりではこの衝撃に耐えられなかったのだ。
店長がすっ飛んできた。
「なんだ、なんだ?」
「入口、入口のところ……」
おお! 店からすぐ出たところに、なんと嘔吐物が、それも人間の嘔吐物がぶちまけられている。目を覆いたくなるほど大量にだ。
「あれあれ、きたねえなあ。どっかの酔っ払いがやりやがったんだな」
「ちがう。オヤジ……あのオヤジよ。毎日、豆腐ばっかり買っていく」
「あのオヤジのゲロだって、どうしてわかる?」
一目でわかる。
おぞましき吐瀉物はすべて、人の口を通過し、いったん胃袋に滞留したとおぼしき豆腐のカケラばかりによって成り立っているからだ。
だけど、あの男はなぜ? なぜわざわざ、店の前まできて嘔吐していったのだろう?
疑問がカスミの頭をよぎったとき、今度は、ゲロよりもっと恐ろしいもの、ゲロをぶちまけた男そのものが視界の中にあることを認めねばならなくなった。
向こうの薄暗がりに潜み、こちらをうかがう気配がする。
ふたたび盛大に悲鳴をとどろかせた。
「きゃーーっ!」
彼女はわれ知らず、店長にしがみついた。
「どうした?」
「あそこに……豆腐男が」
「いないじゃないか」
店長の胸に伏せていた顔をカスミが恐るおそる上げ、目を凝らしてみると……。
たしかに豆腐男は消えていた。
三
カスミの見間違いだったのか? そんなはずはない。現に、あの男にしか吐くことのできない代物がここにある。
店長はいやそうな顔でそれを処理しながらも、とくに切迫した脅威は感じていない様子だ。店長にはもっと危機意識を持ってもらいたかったのに。
カスミは、豆腐男の異常性を訴えずにいられなかった。
「あの人、変よ。ぜったい、変。もう、妖怪かエーリアンだから」
「ただの客だよ。おとなしく買い物していくだけの」
「でも、それ……」
「おとなしくゲロしていっただけだろ。きっと胃の調子が悪かったんだ。こんなところでやっちまい、決まり悪くて逃げたのさ」
「お店の前なのよ。そんな盛大に吐いちゃって、だまって逃げたら困るじゃないの」
「今度、言っとくよ」
「もう、お店に入れないで」
「もう、よせよ」
店長がこうも常識寄りな見方をするのは、きっと自分が狙われてる実感がないからなのだろう。いい気なものだとカスミは思う。