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のしろ雅子
のしろ雅子
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未生怨(みしょうおん)上巻

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祈之は愚図ったのも忘れて身を乗り出し、覗き込む様に見下ろした。二人はその荘厳な景色に見入った。 正夫は木の株に座り込みシーンと静まり返った深山幽谷の中で流れ落ちる永遠の音を聞いていた。 ぼんやりと滝を見つめる正夫は木の伐採に向かう父の背中籠に入り揺られながら何度かこの景色を見ていた。父は単調なこの生活から抜け出したかったのか、後々、持って帰るお金をだまし取られてそれを取り返そうと揉めていたと人伝に聞いたりしたが…今は知る由もない…が、父ちゃんは母ちゃんを裏切っていない、母ちゃんと僕の所へ帰ろうとしていた…正夫は信念としてそれを信じていた…そう思いたかった。噴出す汗を拭いながら黙々と木の枝を払う父を思い出していた。
 祈之は正夫に寄り掛るように座り込むと、拾ってきた釘で木の株に一生懸命何かを書き出した。
「ほら、まーちゃん…」祈之は木の株を指し示した。
 ゛まーちゃん大好き゛と書かれてあった。祈之は正夫に釘を渡すと
「まーちゃんも書いて…祈好きって…書いて…」
正夫は祈之の後ろから抱き込むように手を回すと゛祈 だーい好き 正夫゛と綴った。祈之はそれを相合傘で囲い、振り向くと幸せそうに笑った。

 二人の夏は、結局この福井の山奥で一ヶ月の長期滞在と成った。亜子のドキュメントの撮影が延び延びになり、電車の切符が亜子のマネージャーから送られてきたのは新学期まで一週間足らずという八月も末になってからだった。
 東京に帰る日、滞在中殆ど荷物と一緒に放り投げられていた兎を抱いた祈之の手を引いて、母の病室にやって来た。母は相変わらずふっくらと穏やかな表情で横になっていたが、何日か前から正夫を捜す様な仕草を見せる。正夫の姿を見つけると微妙な変化を見せた。正夫は仕切りのカーテンを少し引くと上半身を起こさせ替えの寝巻きに着替えさせた。幼児の様な白い肌と、薄桜色の乳頭が父への純潔を思わせ、タオルで身体を拭く正夫を見つめるその無防備な姿は菩薩のように穏やかであった。母を寝かせ、手を握り暫く見つめていた正夫は、意を決するように立ち上がった。
「母ちゃん…東京に戻るよ。中学もちゃんと行く。一生懸命働くから、僕の事何も心配しなくていいよ…もう大丈夫だから…」
 離そうとする手を母は離さず、妙な奇声を発した。そして顔をくしゃくしゃにして何か感じ取るのか突然昂ぶりを見せた。正夫は母の手にタオルを握らせ、頬にそっと手を当てジーッと暫く見つめ“母ちゃん…さよなら…”それは聞こえないほど小さな声で呟やいた。
「さっ、行こう」と祈之を促し手を引くと、一度も振り返らず病室を出た。
「母ちゃん、泣いてたね…」
 祈之にはそう見えた。母ちゃんは悲しそうだったと思った。
「何も解りやしないよ…」
正夫は一言ポツリと答えたまま後は無言であった。 もう母と会えることは無いだろうと正夫は思った。
つくつくぼうしが狂うほどに往く夏を惜しみ、見上げる山間は膨らむほどの杉の樹林に覆われ、空は果てしなく青く澄み渡っていたが、やがて急速にこの村は季節を変える。又男たちの出稼ぎの季節、長い冬が訪れる。

               ღ❤ღ