おりん(改稿版)
「まあ、今でも侍って言やぁ侍だがな、さっきも言ったとおりの隠居の身だ、これはお役目でやってることじゃねぇ、ワシの道楽みたいなもんだ、おりんが絡んでた八年前の事件、どうも腑に落ちねぇんだ……去年、平吉が死んだだろう?」
「へえ、立派な目明しの親分さんでいらっしゃいましたな、ウチにも良く来てくださいました、そうそう、ちょうどこんな風に店じまいの間際にいらっしゃいまして、やったり取ったりしたこともちょくちょくありやした」
「あいつは昔ワシの下で働いてくれててなぁ、あの頃も良く酒を酌み交わしたもんだ」
「左様でございましたか」
「酒好きだったが仕事はきちっとする男だった……帳面もいつでもきちっとしててなぁ……だが、おりんの事件のところだけはどうもはっきりしねぇのよ」
「はぁ」
「こいつは性分って言うか、習い性だな、隠居の身になっても腑に落ちねぇことがあると気になっていけねぇ……ひとつ、あの事件の事を語っちゃ貰えねぇか? 平吉が帳面にああ書かなくちゃならなかったんだとわかりゃ気が済むからよ」
「へぇ、そういうことなら……」
「そうかい、じゃあ聞くが、お前さん、現場を見たかい?」
「……いえ、見ちゃおりませんが……」
「ワシも帳面を読んだだけなんだがな、おりんの父親、正吉は腹を刺されて、それでも盗人に立ち向かったらしくてな、心の臓も一突きにされたらしいや、あたりは血の海だったろうよ……どうして二度も立ち向かったんだと思う? 腹の傷は急所を外れてたらしい、大人しくしてりゃ上手くすると死なずに済んだかも知れねぇのにな」
「おりんちゃん……でございましょうな」
「だろうな、ワシもそう思うぜ、盗人が娘にも手をかけようとしたのを見て、腹の傷も忘れて立ち向かった、そういうことだろうな」
「おそらくはその通りでしょうな」
「その事件では盗人も死んでるのは知ってるな?」
「へぇ、平吉親分からそう聞かされておりやす」
「だけど妙な話だよなぁ、ワシが調べた事件の時だっておりんはまだ十五の小娘だ、まして八年前なら八つだよ、そんな力があるはずもねぇだろう?」
「へぇ、そうでございますな、縄を使ったところで到底無理でございましょうな」
侍は口に運びかけた盃を膳に戻した。
「……済まねぇな、今、お前さんにカマをかけてたよ」
「えっ……」
「縄を使ったところで無理、ワシもそう思うぜ、だけど俺は首を締めたなんて一言も言ってねぇんだ……お前さん、現場を見てねぇと言ったな? 帳面にもそう書いてあったよ、むごたらしいだけじゃねぇ、どうにもわからねぇところがある現場なもんで、野次馬が集まらねぇように下っ引きを集めて周りを固めてつぶさに調べたとな……お前さん、本当は事の一部始終を見てたんじゃねぇのかい?」
「いえ……そんな……滅相もない……」
「ワシはそれを知ったところでお前さんをどうこうしようなんてこれっぽっちも思ってやしねぇ、もう十手持ちじゃねぇし、ほれ、刀もそっちにあるんだ……なあ、ワシは本当に知りてぇだけなんだよ」
主は俯いて一つ大きな溜め息を付くと、気を取り直すように顔を真っ直ぐに向けた。
「……お見事でございます、確かにおりんちゃんには到底無理でございますね……あっしは無様に引っかかったようでございますな……ようがす……あっしも老い先長くはねぇ身でしょうし、自分がしでかした悪事を墓場まで持って行ったんじゃ閻魔様もお怒りでしょう、もっとも極楽に行けるなんざ思っちゃおりませんがね……確かにあっしは正吉が刺される所も盗人が首を絞められてこと切れるところもこの目で見やした」
「そうかい、話してくれるかい、ありがとうよ、恩に着るぜ……お前さん、今、盗人と呼んだが、本当はそいつを知ってたんじゃねぇのかい? 金蔵って言う野郎だ、例の一味の一人だったことも、一味から弾かれたことも察しは付いてるんだ」
「驚きやしたな、そんなことまで……」
「野郎は武州で荒っぽい仕事をやってたのよ、とうとうお縄にはしそこなったがな……野郎の手口は押し入りよ、そのくせ柄にもなく現場に風車なんぞを残して行きやがる」
「左様でございましたか……風車の一味と同じように……」
「手口は似ても似つかねぇが……あの一味の仕事は奇麗なもんだったと言うからな」
「泥棒には変わりはありませんがな」
「違ぇねぇ、だけどやつらは人を殺めたり傷つけたりは一度だってしてねぇ、用意周到に手はずを整えて誰にも気づかれずに仕事をやってのけた、だからこそお前さんみたいな手引きが要り用だったんじゃねぇのかい?」
「仰るとおりで……」
「だったら、金蔵みてぇに荒っぽい野郎は使えねぇや、だけど野郎は名高い一味の一人だったのを誰かに自慢したかったんだろうな、だから風車だなんて似合わねぇ真似を」
「そうでございましょうな、あの時も持っておりやした……親分さんはおりんちゃんの玩具だと思って気に留めていらっしゃらない様子でしたがな」
「まあ、そいつは無理もねぇやな、俺もここまで繋がるには一年かかってるんだ……金蔵はお前さんに手引きを頼んだ、いや、野郎のことだ、頼んだなんて優しいもんじゃねぇだろうな、脅して無理強いした、そうなんだろう?」
「だからと言ってして良いことじゃありませんがな……確かに刃物で脅されやした、奴の気性は分かっておりやしたから、断ればただは済まないだろうとも……」
「正吉の家を選んだのは何故だい?」
「正吉は染物職人でございましたから土手っ縁にぽつんと小屋を建てて住んでおりましたし、腕が良い上に飲む打つ買うとはとんと縁のねぇ真面目な男でございましたから、小金を溜め込んでいるに違ぇねぇと……金蔵はまとまった金が手に入らなければ盗みを繰り返すに決まっておりやす……それに正吉はおりんちゃんと二人暮らしでございましたからな、かみさんがいればどちらかは殺められると思いまして……」
「なるほどな、だけどお馴染みさんだ、辛かっただろう?」
「だからこそ手引きした後もこっそり覗いておりやした、正吉は喧嘩にも縁のない男でしたから歯向かわないでくれれば良いと……最初に金蔵が脅した時、正吉は震えながら金を差し出したのでございます、その時、あっしは正吉に申しわけねぇと思いやしたが、怪我だけはなくて良かったと……」
「ところがそれじゃ済まなかったわけだ」
「へぇ、金蔵は金を受け取っても表に逃げずにずかずかと奥へ……そっちにはおりんちゃんが寝ておりやす、正吉は金蔵を止めようとして」
「その時腹を刺されたんだな?」
「左様で……金蔵は構わずおりんちゃんの布団を剥ぎやして、目を醒ましたおりんちゃんが悲鳴を上げようとするところを口を塞いで刃物をかざしやしたんで、正吉は奴に飛び掛りやした」
「その時だな? 正吉が心の臓を一突きにされたのは」
「左様でございます……正吉は苦しい息の中からもおりんちゃんに『逃げろ』と……でもおりんちゃんはその時もう気を失っていたのでございます……」
侍が主の盃に酒を注ぐと、主はそれを一気に飲み干し、大きな溜め息をついた。