切り札
0.
「いつでも切り札を持っておけよ」と死んだ父親がよく言っていた。父親がどんな切り札をもっていたのかは、ついぞ知ることがなかったけれど。
1.
「なんで怒ってたの?」
少しの後、既読マークがついて、彼女から返信がきた。
「なんで? なんでってどういうことですか?」
「理由がわからないんだ」
「でしょうね」
「怒らせたんだね、ごめんね」
「理由がわからないのに、ごめんね、って言うんですね」
そうだ、そのとおり。僕にはそんな癖がある。
「あのあと、どうやって帰ったの?」
「それを知ってどうするんですか? 『タクシーで』と答えたら、タクシー代を出してくれるとでも? 」
それから僕が何度メッセージを打っても、彼女から返信が来ることはなかった。既読にすらならず、無視された状態のまま。
僕はベッドに寝転んで、ため息をひとつついた。
ついさっきまで二人で桜並木を散歩していた。そこは桜の名所として名高い場所で、満開になったら絶対行こうね、と話し合っていた場所だ。想像通り、堤川沿いに延々と続く桜並木はとても綺麗で圧巻だった。
「桜、きれいねえ」
ターコイズブルーのロングスカートが、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
「そうだねえ。花びらも大きくて、ふっくら感があるねえ」
「ふっくら感? 初めて聞いたよ、そんなの」
彼女は口を大きく開いて笑った。
「ピンク色の綿菓子みたいで、ふわっとした感じがしない?」
「綿菓子ねえ。そうかも、綿菓子っぽい」
「でしょ」
風で彼女のスカートが揺れた。
「桜ってさ、散り際になると葉っぱが出てきて、途端に風情がなくならない? 色的に残念になるというか」
「色的? あー、それはわかるかも。桜の薄桃色と葉っぱの緑色って合わない色なんだろうね」
「そう思う」
「でも、たっくんが前に見せてくれた高校時代のバスケ部のユニフォームって、緑地にピンクのラインが入っていなかった?」
「いやいや、赤地に緑のラインだよ。クリスマスみたいな配色でさ」
そのときは二人で笑っていたはずだ。手をつなぎながら、流れる時間を慈しみながら、一歩一歩地面を踏みしめながら、二人で笑っていたはずだ。彼女は髪を耳にかけ、―ちなみにこの仕草は僕の好きな女性の仕草だ―、優しい表情で、桜を眺めていた。
川沿いを歩いているのは僕たちだけではなく、子ども連れの家族とか、僕らみたいなカップルとか、犬を散歩させている人とか、たくさんの人がいた。皆、幸せそうだった。太陽がきらめいて、桜が満開で、穏やかな風に包まれていたら、不幸せになんかなりっこない。
と思った矢先、それは突然だった。
そう、いつだって事件は突然やってくる。予兆できる人はいない。
彼女がぱっと僕の手を離した。彼女の表情を見なくとも、彼女がどういう気持ちでいるかわかった。
そう、前にもこんなことがあったから。
「たっくん、わたし帰るね」
声のトーンが暗く冷たい。この場所にはまるでふさわしくない。
「え? どうしたの」
「人の気持なんてわからないんですもんね」
「いや、何か変なことしたのかな? それとも何か変なこと言っちゃった?」
「もういいですから」
そう言って、彼女は僕をにらみつけた。そして、足早に立ち去った。僕に追いつかれまいと、こっけいなほどに早足だった。僕は彼女の気持ちを無意識にくんだのか、追いかけようとはしなかった。
つきあい始めの頃を思い出した。彼女は同じように突然怒りだし、執拗に引き留めようとした僕を振り払った。彼女が怒ったら、もう手が付けられない、と悟った。
それともうひとつ、ため息とともに思い出したのは、彼女は怒ると敬語を話すってことだった。
2.
「千里眼をもったマッサージ屋知ってる?」
「ごめん、ちょっと何を言っているのかわからない」
週明けの月曜の昼下がり、僕は友だちの武と一緒に大学校内のカフェ「ユンゲ」にいた。大きなチョコレートパフェが有名なカフェで、武の目の前にはそのパフェがあった。彼はこのパフェが大好きで、毎週食べなきゃ気が済まない。
「西門から常盤商店街を抜けると、最後に床屋があるじゃんか?」
「ああ、清彦が行ってるとこでしょ?」
「ええ、そうなの? 清彦って美容院行っているかと思ってたわ」
「美容院も行ってるんだけど、床屋には髭剃りしてもらうために行ってるんだって。なんか、耳毛を剃られるのがたまらなく好きだって言ってたもん」
「キモチワル」
武の表情は心底嫌がっているようだが、実は、僕も耳毛を剃られるのが好きだったりする。
「まあ、そんな話はどうでもいいの。俺の話に戻そう」
「おお」
「その床屋の向いにログハウスみたいな店あるの知らない? 店の周りにのぼりが立ってて、入り口にはのれんがあるからさ、一見ラーメン屋っぽく見えるんだよ。だけど、よくよく見ると、のれんには『大堀マッサージ店』ってあるんだ」
「へー、そうなんだ。で?」
いまいち話に乗り切れない僕は、緑茶をゆっくりとすすった。頭の中の9割ぐらいは、土曜日に喧嘩してそれ以来距離を置いたままの彼女で占められていた。日曜日も、今日も、メールしたり、LINEをしたり、電話をしたけれど、まるっきり無視された。
「噂では、そこに何でもかんでもお見通しの千里眼を持つ先生がいるって話しでさ、そういうオカルトチックな話って俺好きじゃんか? だから先週行ってきたんだよ、そこに」
「へー。で?」
「で、ってなんだよ。もうちょっとさ、前のめり気味に興味はないのか?」
「いや、別に」
窓側の席で、カップルがいちゃいちゃしていた。いいなあ、と素直に思う。その一方で、この人達も普通に喧嘩するんだろうなあということも考えていた。敬語で冷たく言われたり、無視されたり……。
「おい、拓也。お前俺の話に集中しろよ」
「聞いてるよ、ちゃんと」
「だからさ、もうちょっとさあ、続きを知りたいって態度で表してくれよ」
こういうやりとりをしなきゃならないのが、武の面倒くさいところだ。
「わかったよ。知りたいから教えてよ」
そう言って僕は顔を武に近づけた。武はにんまりと笑う。
「よし、教えてあげよう」
武は水をごくりと飲んだ。
「店の雰囲気がさ、全体的にくすんでるんだよね。ゴミが所々に落ちているし、雑草は生え放題、窓は擦りガラスで中の様子がまるでわからないし、あんまり進んで入ろうとは思わない店なんだよ。客なんてここ数年来てないんじゃないかって思うぐらい」
「おまえよく特攻したね?そんなとこに」
僕は心底そう思った。
「まあ、話のネタになればと思ってね。なんか面白いネタがあれば、写真撮ってTwitterに投稿できんじゃん。んで、バズるとフォロワーが増えて一躍有名人じゃん。だからさ、別に店に入るのは無問題だったんだよ。逆にさ、店主に脅されちゃった、とか、死体を見つけちゃった、とか、なんかあったほうがいいやって感覚だったんだよね」
そんな話、僕には理解できない。
「で、行ったわけだ」
武は、白玉を口に入れ、しばらく咀嚼したのち、ごくりと飲み込んだ。
「いつでも切り札を持っておけよ」と死んだ父親がよく言っていた。父親がどんな切り札をもっていたのかは、ついぞ知ることがなかったけれど。
1.
「なんで怒ってたの?」
少しの後、既読マークがついて、彼女から返信がきた。
「なんで? なんでってどういうことですか?」
「理由がわからないんだ」
「でしょうね」
「怒らせたんだね、ごめんね」
「理由がわからないのに、ごめんね、って言うんですね」
そうだ、そのとおり。僕にはそんな癖がある。
「あのあと、どうやって帰ったの?」
「それを知ってどうするんですか? 『タクシーで』と答えたら、タクシー代を出してくれるとでも? 」
それから僕が何度メッセージを打っても、彼女から返信が来ることはなかった。既読にすらならず、無視された状態のまま。
僕はベッドに寝転んで、ため息をひとつついた。
ついさっきまで二人で桜並木を散歩していた。そこは桜の名所として名高い場所で、満開になったら絶対行こうね、と話し合っていた場所だ。想像通り、堤川沿いに延々と続く桜並木はとても綺麗で圧巻だった。
「桜、きれいねえ」
ターコイズブルーのロングスカートが、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
「そうだねえ。花びらも大きくて、ふっくら感があるねえ」
「ふっくら感? 初めて聞いたよ、そんなの」
彼女は口を大きく開いて笑った。
「ピンク色の綿菓子みたいで、ふわっとした感じがしない?」
「綿菓子ねえ。そうかも、綿菓子っぽい」
「でしょ」
風で彼女のスカートが揺れた。
「桜ってさ、散り際になると葉っぱが出てきて、途端に風情がなくならない? 色的に残念になるというか」
「色的? あー、それはわかるかも。桜の薄桃色と葉っぱの緑色って合わない色なんだろうね」
「そう思う」
「でも、たっくんが前に見せてくれた高校時代のバスケ部のユニフォームって、緑地にピンクのラインが入っていなかった?」
「いやいや、赤地に緑のラインだよ。クリスマスみたいな配色でさ」
そのときは二人で笑っていたはずだ。手をつなぎながら、流れる時間を慈しみながら、一歩一歩地面を踏みしめながら、二人で笑っていたはずだ。彼女は髪を耳にかけ、―ちなみにこの仕草は僕の好きな女性の仕草だ―、優しい表情で、桜を眺めていた。
川沿いを歩いているのは僕たちだけではなく、子ども連れの家族とか、僕らみたいなカップルとか、犬を散歩させている人とか、たくさんの人がいた。皆、幸せそうだった。太陽がきらめいて、桜が満開で、穏やかな風に包まれていたら、不幸せになんかなりっこない。
と思った矢先、それは突然だった。
そう、いつだって事件は突然やってくる。予兆できる人はいない。
彼女がぱっと僕の手を離した。彼女の表情を見なくとも、彼女がどういう気持ちでいるかわかった。
そう、前にもこんなことがあったから。
「たっくん、わたし帰るね」
声のトーンが暗く冷たい。この場所にはまるでふさわしくない。
「え? どうしたの」
「人の気持なんてわからないんですもんね」
「いや、何か変なことしたのかな? それとも何か変なこと言っちゃった?」
「もういいですから」
そう言って、彼女は僕をにらみつけた。そして、足早に立ち去った。僕に追いつかれまいと、こっけいなほどに早足だった。僕は彼女の気持ちを無意識にくんだのか、追いかけようとはしなかった。
つきあい始めの頃を思い出した。彼女は同じように突然怒りだし、執拗に引き留めようとした僕を振り払った。彼女が怒ったら、もう手が付けられない、と悟った。
それともうひとつ、ため息とともに思い出したのは、彼女は怒ると敬語を話すってことだった。
2.
「千里眼をもったマッサージ屋知ってる?」
「ごめん、ちょっと何を言っているのかわからない」
週明けの月曜の昼下がり、僕は友だちの武と一緒に大学校内のカフェ「ユンゲ」にいた。大きなチョコレートパフェが有名なカフェで、武の目の前にはそのパフェがあった。彼はこのパフェが大好きで、毎週食べなきゃ気が済まない。
「西門から常盤商店街を抜けると、最後に床屋があるじゃんか?」
「ああ、清彦が行ってるとこでしょ?」
「ええ、そうなの? 清彦って美容院行っているかと思ってたわ」
「美容院も行ってるんだけど、床屋には髭剃りしてもらうために行ってるんだって。なんか、耳毛を剃られるのがたまらなく好きだって言ってたもん」
「キモチワル」
武の表情は心底嫌がっているようだが、実は、僕も耳毛を剃られるのが好きだったりする。
「まあ、そんな話はどうでもいいの。俺の話に戻そう」
「おお」
「その床屋の向いにログハウスみたいな店あるの知らない? 店の周りにのぼりが立ってて、入り口にはのれんがあるからさ、一見ラーメン屋っぽく見えるんだよ。だけど、よくよく見ると、のれんには『大堀マッサージ店』ってあるんだ」
「へー、そうなんだ。で?」
いまいち話に乗り切れない僕は、緑茶をゆっくりとすすった。頭の中の9割ぐらいは、土曜日に喧嘩してそれ以来距離を置いたままの彼女で占められていた。日曜日も、今日も、メールしたり、LINEをしたり、電話をしたけれど、まるっきり無視された。
「噂では、そこに何でもかんでもお見通しの千里眼を持つ先生がいるって話しでさ、そういうオカルトチックな話って俺好きじゃんか? だから先週行ってきたんだよ、そこに」
「へー。で?」
「で、ってなんだよ。もうちょっとさ、前のめり気味に興味はないのか?」
「いや、別に」
窓側の席で、カップルがいちゃいちゃしていた。いいなあ、と素直に思う。その一方で、この人達も普通に喧嘩するんだろうなあということも考えていた。敬語で冷たく言われたり、無視されたり……。
「おい、拓也。お前俺の話に集中しろよ」
「聞いてるよ、ちゃんと」
「だからさ、もうちょっとさあ、続きを知りたいって態度で表してくれよ」
こういうやりとりをしなきゃならないのが、武の面倒くさいところだ。
「わかったよ。知りたいから教えてよ」
そう言って僕は顔を武に近づけた。武はにんまりと笑う。
「よし、教えてあげよう」
武は水をごくりと飲んだ。
「店の雰囲気がさ、全体的にくすんでるんだよね。ゴミが所々に落ちているし、雑草は生え放題、窓は擦りガラスで中の様子がまるでわからないし、あんまり進んで入ろうとは思わない店なんだよ。客なんてここ数年来てないんじゃないかって思うぐらい」
「おまえよく特攻したね?そんなとこに」
僕は心底そう思った。
「まあ、話のネタになればと思ってね。なんか面白いネタがあれば、写真撮ってTwitterに投稿できんじゃん。んで、バズるとフォロワーが増えて一躍有名人じゃん。だからさ、別に店に入るのは無問題だったんだよ。逆にさ、店主に脅されちゃった、とか、死体を見つけちゃった、とか、なんかあったほうがいいやって感覚だったんだよね」
そんな話、僕には理解できない。
「で、行ったわけだ」
武は、白玉を口に入れ、しばらく咀嚼したのち、ごくりと飲み込んだ。