異能性世界
今自分が住んでいる世界に疑問を持っている人が、一体どれだけたくさんいるだろうか? 日々新しいことに遭遇し、人生の幅が広がっていると自信を持って言える人を見てみたいものである。ほとんどの人が毎日同じことの繰り返し、繰り返しは日々であったり、週であったり、月であったりする。特に仕事をしていると周期が大切になってくる。周期の仕事をこなしてこその業務なのだ。
仕事から帰ってきてから、一人の部屋で佇んでいると、余計なことを考えてしまう。考えなくてもいいようなことなのに、どうして考えてしまうのか、きっと感動がないからだろう。
「感動することを忘れてしまったのだろうか?」
それとも、最初から感動などというのは、幻のようなもので、感動したと思っていることでも、冷めてしまうと思い出すことすらできなくなってしまう。定期的に繰り返していることにウンザリすることもなく、ただ息をしていることのように当然であることすら意識がない。
「いつからこんな風になったんだろうか?」
こんな風になったというよりも、こんな風に考えるようになったのかという方が的確なのかも知れない。
毎日が家と会社の往復で、朝から夕方までの決まった時間、ひたすら仕事をしている。立場は決まっていて、今日自分の上司が、明日は部下になるなどありえない。当たり前のことのように思っているが、もし変わってしまえば面白いかも知れない。
毎日パソコンのモニターの前で、キーボードをカチカチ叩いている。部屋にはキーボードの音しか聞こえない。たまに電話が入って話をする声が聞こえると、うるさいと思う人もいるだろうが、自分は却ってホッとする。まわりにいるのが人間だと思うからだろう。
人間がいるからホッとするというのだろうか? それほど人間の存在はありがたいのだろうか。人間という一括りの同じ種類のものがありがたいという感覚は、本来ならあまり好きではなかったはずだ。
子供の頃に、テレビで見ていた特撮ヒーロー物の番組で、宇宙人の話が出てきた。
子供心におかしなことを考える少年だったが、今から思えば考え方に納得がいく。
宇宙人と地球人を別格で見ているのが特撮物の番組だった。
「地球人だって、宇宙人じゃないか。もし、同じテーマを火星人がドラマにしたとすれば、地球人は、誰であっても「地球星人」として一括りに纏められ、人間という意識ではなくなってしまうかも知れない。ひょっとすると、サルも同じ種類の「地球星人」にされてしまうかも知れない。要するに自分たちの星以外の生物は、同じ星に住んでいれば、同じ「星人」扱いとなるのだ。
これこそが人間という傲慢な種別なのだろう。もっとも、他の動物をパッと見て、歴然とした違いでもない限り、性別の違いを見つけることはできないだろう。
秋山修は、そんなことばかり考えて大きくなった男だった。
今年、三十歳になったが、まだ気持ちは学生だ。成長していないというよりも、社会人になりたくない、染まりたくないという思いから、意識が年を取るのを拒否しているかのようだ。
付き合っている人はいるが、本当にその人が好きなのかというと疑問である。相手から好かれたから付き合っているというのが本音で、
「自分は、相手から好かれないと、女性と付き合う気がしないんだ」
と、学生時代から話していた。
「傲慢な奴だ」
と思っている人も多いだろうが、
「地球星人の考え方よりはマシだ」
と、頭の中で、
「傲慢というのは認めるが、まだまだ上がいるのさ」
と呟いていた。
「お前は天邪鬼だ」
と言われたものだが、これも否定しない。それどころか、
「人と同じことをしたって面白くも何ともないじゃないか」
と言いたいくらいだった。人から傲慢と言われて、それが自分の勲章であるかのように思うのは、それだけ個性を大切にしたい性格だと思うからだ。言い訳ではなく、個性を大切にしているのだから、自分に説得力はあると思っていたのだ。
学生時代からSF小説をよく読んだ。日本の小説から、海外の小説まで、本屋でSF小説の本の背を眺めているだけで、充実した時間を過ごせている気分になったものだ。
「地球星人の影響もあったかも知れないな」
と苦笑したが、興味とは意外と矛盾した考えから生まれるものなのかも知れない。修は何かに興味を持つ時、初めて生きているという実感が浮かぶのだった。
修は興味を持ったものにしか、一生懸命になることはなかった。他の人も同じではあるが、遠慮はない。自分が興味を持ってすることに対し、他人からの指摘を好まないし、批評を敢えて受けるようなこともしなかった。
「お山の大将」
という感じだが、それが悪いという気持ちはなかった。自分が極めようとしていることに対して、誰からも邪魔立てされることは許さないという思いが強く、どうかすると、会社を休んでまで没頭することがあった。
そのくせ、興味を持ったことが続くことはない。飽きが来るわけではないのになぜか長続きしないのだ。だから、趣味と呼べるものを持っているわけではない。その時々で好きになるものが変わっている。それぞれに極めたわけではないのに、どうしてこんなに心変りしてしまうのか、自分でも不思議だった。
修は、自分がタイムスリップしているのではないかという思いを抱いていた。ハッキリとした確証はないのだが、タイムスリップと言っても、そんな大げさなものではない。せいせい五分を一瞬で飛び越えたというくらいの意識で、五分であれば、その間、意識が朦朧としていただけだと理解する方がよほど理論的であろう。
ただ、五分という時間を意識が朦朧とした意識もなく、後から納得させるために意識したような辻褄合わせの状態が何度か続くと、さすがに、
「納得させるための言い訳」
というだけではすまなくなってくる。
小さなタイムスリップを何度か体験していると、このまま大きなタイプスリップに入り込んでしまうのではないかと思うようになってくると、ある時、修は一人の女性に出会った。
出会ったというよりも、相手から声を掛けられたのだ。毎日のウンザリするような退屈な生活に一筋の光明になるのだろうか。少なくとも毎日同じことを繰り返していることには変わりないが、彼女がいるだけで、世の中の見え方が変わってきた気がした。
最初に感じたのが、一人でいる時の時間がやたらと短いことだった。この間まで、いつ終わるとも知れない一人でいる時間、果てしなさという言葉を痛感していたが、次第にその時間が短くなっていき、さらに部屋が狭く感じられた。
六畳の部屋が自分には広すぎる空間だと思っていたのに、今では横になるのも窮屈さを感じさせるほどになっていた。それまで持て余していた時間が空間を果てしないものにし、無駄な空間を作り出していたが、それを寂しさだと思っていたが、寂しさがなくなることをどう表現すればいいかと考えれば、
「充実感が違っている」
という表現に落ち着いてくることを感じた。
「出会ったのが女性だったから?」
相手が男だとここまでは充実感を感じないだろうし、時間と空間について考えることもなかっただろう。
「やはり、俺は女が好きなんだ」