ショートショート集 『一粒のショコラ』
ー34ー 空気のようなもの
夫婦は長年連れ添うと、空気のような存在になるとよく聞く。しかし俺にはそうは思えない。なぜなら、俺はいつだって女房の顔色をうかがっているからだ。
あいつの機嫌がいいとホッとする。そして、家の中が明るくなる。そうでない時は……
空気というものは、もっと自然なものだと思う。
ドラマなどで、
『誰のおかげで飯が食えるんだ!』
と亭主が怒鳴るシーンがある。もし、俺があいつにそんなことを言ったらどうなるだろう?
あいつは呆れたように俺を見て、飯も作らず寝てしまうだろうか? いや、そんな生易しいもんじゃない。何も言わずに家を出て行ってしまうかもしれない。
仕事帰り、飲み屋で同僚たちと酒を飲んでいると、時々女房の話になる。すると、みんなやけに威勢がいい。そして、みんながみんな亭主関白になる。しかし、それは酒が回っているからで、ここだけの話に過ぎない。つまり、普段家で小さくなっている分をここで取り返しているのだ。俺もその一人だからよくわかる。
ある晩、嫁に行った娘が里帰りして、女房と茶を飲んでいた。女二人にはかなわない。俺はさっさと風呂に入ることにした。
脱衣所で服を脱ぎ始めた俺は、着替えのパンツを忘れたことに気づいた。女房だけなら、お〜いパンツを持ってきてくれ〜と叫べばいいが、娘の手前、今夜は言えない。仕方なく、服を着直して廊下に出ると、ふたりの会話が聞こえてきた。
「あんたね、誰のおかげでご飯が食べられると思っているの! 旦那さんが一生懸命働いてくれているからでしょ!
毎日いっしょに暮していれば、そりゃ、いろいろ不満だって出てくるのはわかるわよ。
でもね、外で大変な思いをしながら、旦那さんは、あんたとの生活を守るためにいろいろと我慢しているの。そのことを忘れてはだめよ。
夫婦はね、空気みたいなもの。ふだんは気がつかないけれど、ないと生きていけないくらい、お互い大切なものなんだから」
俺は、そんな女房の言葉を耳にして、その場に立ちすくんでしまった。あいつがそんな風に思ってくれていたなんて、俺はまったく思いもしなかった。
そうだ、男は守る家庭があるから、そして支えてくれる家族がいるからこそがんばれるんだ。わかっていないのは俺の方だった。ああ、俺はなんて了見の狭い男だろう。俺だけではない、飲み屋で管をまいている同僚たちもみな同じだ。
そして、空気という言葉の意味が、気にならない存在を表すのではなく、その存在なくしては生きていけないということだと知り、俺は深く納得するのだった。
作品名:ショートショート集 『一粒のショコラ』 作家名:鏡湖