月夜に恋ひとつ
「そういう決まりなの…」
「誰との決まり?」
「世界との決まりなの。」
「嫌だよ、そんなの!」
「ごめんね。」
そう言うと僕は三日月の細い右手を握った。
「絶対に嫌だよ。」
「本当にごめんなさい。」
「僕が人間だから?」
「そう…かもしれない。」
僕は泣いた。ただただ泣いた。
「じゃあ、僕が太陽になる。」
「無理よ。」
「…」
「奈音くん…本当にごめんなさい。」
「…」
「星の決まりなの…」
「星の決まり?」
「世界と星の決まり…」
「そんなの僕が破ってあげる。」
「それは無理なの。」
「どうして?」
僕は泣きながら話していた。
「そういう決まりなの…」
「大好きなのに…」
「私だって寂しいの…」
「…」
正直、僕には言ってることがよくわからなかった。
「そんな決まり、僕が破ってあげるから。」
僕は泣きながら言った。
「それは絶対に無理なの…」
「…」
僕はそれ以上何も言えなかった。
「もしもまたいつか会える日があったら…」
「なぁに?」
「私のために作った歌を聴かせて。」
「…うん。」
「あ、もうこんなに明るくなっちゃった…」
「また…ね。」
その夜はいつも以上に明けるのが早く感じた。いつものように気付くと僕はベッドの上だった。
お月様 すごく細かったよ
お月様 折れそうなぐらい細かったよ
お月様 会えたけどすごく寂しくなったよ
お月様 会えたけどすごく悲しくなったよ
お月様 大好きだよ
それから十年後、僕は十六歳、高校一年生になっていた。小学校や中学校は何事もなく卒業出来た。それから高校へ入学したのだった。月に会うことが出来なくなったこと以外はほとんど変わりなかった。ギターは大人用のものを買い、作曲が出来るレベルになっていた。「月夜に恋ひとつ」という絵本はボロボロになりながらも、僕の部屋の本棚にあった。
ある日のことだった。僕は学校帰りに空を見ていた。月が綺麗な夕暮れ時だったが星はひとつとして見当たらなかった。家へ帰ると僕は昔を思い出し、絵本を手に取った。そしてその夜、僕は月に会おうと思ったのだ。
夜も更けて街は真っ暗だった。僕は時計の電池を外して時間を止めた。幼い頃のように…そしてギターを持ってベランダへ出た。すると僕を呼ぶ声が聞こえた。
「奈音くん。」
「え?」
気付くと僕は空の上にいた。青色の三日月が僕の隣にいた。僕は空にいたのだった。
「私のこと覚えてる?」
「もちろんだよ。」
「良かった。」
「でもどうして?」
「今日だけ特別に許してもらったの。」
「ずっと会いたかったよ。」
「私も。ギター…」
「うん。大人用のやつを買ったんだ。」
「何か弾いて聴かせて。」
「僕ね、君の歌…あの絵本の文章に曲をつけたんだ。」
「聴いてみたい。」
「いいよ。今から弾くね…」
タイトル「月夜に恋ひとつ」
絵本の中のあの子に僕は恋をした
そしたら世界はその子を三日月にした
絵本の中のあの子に僕は恋をした
そしたら世界はその子を青色にした
灯りが眠る頃 僕は君に会いに行くよ
時計を止めたなら 草臥れたギターと旅に出るよ
星ひとつない空を 君と手を繋いで見下ろしていたら
あっという間に意地悪なお日様が おやすみと言って僕を眠らせた
また…ね
絵本の中のあの子に僕は恋をした
そしたら世界はその子をまん丸にした
絵本の中のあの子に僕は恋をした
そしたら世界はその子を赤色にした
光が項垂れた真夜中 待ち合わせ
右手の薬指でラブレターをそっと海に書いた
星ひとつない空を 君と手を繋いで見下ろしていたら
あっという間に意地悪なお日様が おやすみと言って僕を眠らせた
また…ね
絵本の中のあの子に僕は恋をした
星ひとつない夜に…
月の目には涙が浮かんでいた。それから僕はそっと三日月の細い左手を握った。
「ありがとう。」
「約束したでしょ?いつか曲を作ってあげるって。」
「うん。」
「こんな曲しか作れないけどさ…」
「すごく素敵な曲だよ。」
「そう?」
「ありがとう。でもこれで本当に最後なんだよね?」
「うん。」
「それでもこうしてまた会えただけでも僕は嬉しいよ。」
「私も。」
僕は三日月の涙を拭った。そして小さなキスをした。
「会えて良かった…」
「うん。」
「僕はね、きっといつかまた会えるって信じてた。」
「ありがとう。」
「だから絵本もちゃんと大事に本棚にしまってあるよ。」
「嬉しい…」
「だって宝物だからね。」
「宝物?絵本が?」
「そう…あと…」
「あと?」
「お月様と一緒に会っていた時の思い出。」
「覚えていてくれたの?」
「もちろんだよ。」
「あまり会ってもいないのに?」
「うん。」
「十年も時間が経ったのに?」
「うん。」
「ありがとう。」
「あのさ…」
「これからも空の上から僕を見ていてくれる?」
「もちろん。」
「奈音くん、もうすっかり大人みたい。」
「まだ十六歳だけどね。」
「うん。でも大人になったみたい。」
「ありがとう。」
「今日会えてすごく嬉しかったよ。」
「うん。僕も…」
そう話しているとあっという間に辺りは明るくなり始めていた。絵本のようにお日様は意地悪だった。
「私もう帰らなくちゃ…」
「うん。また…ね。」
もう会えないことはわかっていたけど、「また…ね。」と言ったのは絵本に書いてあるからだった。そして僕は気付くとギターを抱いたままベッドで寝ていた。
お月様 すごく細かったよ
お月様 折れそうなぐらい細かったよ
お月様 会えてすごく嬉しかったよ
お月様 会えてすごく楽しかったよ
お月様 大好きだよ
僕がまだ幼い頃に出会った月は誰だったのだろうか。何だったのだろうか。十六歳になった今でもその謎は解けないままだった。そしてなぜ十年後にこうしてまた出会えたのだろうか。それも解けない謎のままだった。
疑うことはものすごく簡単で、信じることはものすごく勇気の要ることだと思った。三日月や満月と会っていた僕はきっと勇気があったのだと思う。当時のパパとママとお姉ちゃん、望くんや幼稚園の友達よりも…
そしてそれを今話せばきっと誰もが僕を馬鹿にするだろう。それもあるが、僕はこの話は月とふたりだけの秘密にしておこうと思った。ふたりだけの秘密だなんて素敵なのだから。
そしてまた会えたことは僕が心のどこかで、また会えると信じていたのだろう。だから「月夜に恋ひとつ」という絵本を題材にした曲も作れたのだと思う。実はこの曲を作るのにはすごく苦労していた。作っても月に聴かせることが出来ないかもしれない、そんな思いもあった。
そしてただ言えることは、星ひとつない夜に出会った月が僕の初恋だった。
月夜に恋ひとつ…