⑤全能神ゼウスの神
どこまでも
「や…だ…やだ!やだ、リカ!!」
目の前から幻のように消えたリカを、探し回る。
けれど狭い室内のどこにも、あの美しい姿はなかった。
「いやだ!リカ!!」
私は床にへたりこむと、顔を覆う。
堰を切ったように涙が溢れだし、嗚咽が漏れた。
サタン様はそんな私の前に屈むと、赤い瞳で覗き込んでくる。
「めいちゃん…。」
名前を呼ばれた瞬間、ふわりと抱きしめられた。
やわらかな金色の光が広がると、サタン様は腕の力をゆるめる。
「あ、ほんと、何ともない…。」
呟く声に、私は顔を上げた。
「あの小屋の時みたいに、蛇口全開の水が流れ込んでくる、みたいなのは全然ない…。」
サタン様はやわらかな笑顔で、涙に濡れた私の頬に大きな手を添える。
「ここなら、めいちゃんに触れられる♡」
親指で涙を拭ってくれるサタン様の赤い瞳は、これ以上なく優しい。
思わずうつむくと、もう一度サタン様に深く抱きしめられた。
「すっかり…リカさんと深い仲になってたんだね。いつの間にか呼び捨てだし♡」
光が虹色に変化する中、からかうように言われる。
(ふ…深い仲!?)
否定しようと顔を上げると、至近距離でサタン様が困ったように笑った。
「あれ?俺、今めっちゃ嫉妬深い男だった?」
軽い口調であははと笑うサタン様に、私は慌てて首をふる。
「そ…そんな関係じゃないんです!」
そう。
思えばあんな口づけを交わしながらも、リカがどういう気持ちなのかわからない。
「…でも、私はリカが好きです。」
きっぱり言うと、サタン様は私を腕から解放し、床に胡座をかいた。
「うん。」
「リカも、私の気持ちを知っています。」
「うん。」
「でも、リカにとって私は『食後のデザート』なんです。」
「うん。…え!?」
サタン様の赤い瞳が、僅かに見開かれる。
「私は、甘いんだそうです。だから、甘党のリカは『食後のデザート』って言いながら、口づけてくるんです。」
胸が苦しくなりながらそう言うと、サタン様はきょとんとした顔で私を見つめた。
「だから、こうやって簡単に置いて行かれ…」
「はぁ。」
私の言葉を遮るように、サタン様がわざとらしく大きなため息を吐く。
「いや、いいんだけど~別に。めいちゃんが鈍感で気づかないまま諦めてくれそうな今の状況って、俺にとっては最大のチャンスだしー。」
言いながら、胡座に片肘ついて頬を歪ませた。
「でも、そーやって手に入れても、ぜーったいあの人の影にずーっと怯えることになってさ、結局うまくいかないよねー。」
(…なんのこと?)
首を傾げる私の前で、サタン様は再び盛大なため息を吐く。
「だから、ずるいことはしない。」
そう言い切ると同時に、いつもの明るい表情に戻った。
「めいちゃんの想いが叶うよう、最大限の協力をするよ。」
言いながら、立ち上がる。
「そんでリカさんにフラれたら、俺のこと真剣に考えて♡」
(え?)
驚く私に背を向けて、何かを拾うサタン様。
ふり返ったその手には、杖が握られていた。
「あ!リカの…。」
悪戯な笑顔で頷きながら、サタン様は私に杖を差し出す。
「完璧そーに見えるあの人も、今度ばかりは冷静さを失ってるかもね。」
サタン様から受け取った杖は、想像以上に重かった。
それが、リカが背負うものの重さのようにも感じた。
(どこにいても、結局リカはいつも負うものが重い…。)
「俺がコンタクト取るからさ、それ持って行ってみよー♪」
私は大きく頷くと、その杖をギュッと抱きしめる。
(リカ、私も傍で一緒に…!)
そう強く願った瞬間、胸に抱いた杖から強い虹色の閃光が放射線状に放たれ、風が唸るような轟音が響いた。
「めいちゃん!?」
サタン様が慌てて手を伸ばす。
私はその手を必死で掴んだ。
サタン様は、強い力で私を抱きしめる。
けれど、何かに吸い込まれるように全身を強い力に引っ張られてしまう。
「…ぅ…くっ!」
サタン様は発生したプラズマに苦しげに呻きながらも、私を抱く腕に力を籠めた。
私もサタン様の大きな胸に杖ごとギュッとしがみついて、離れないように力を籠める。
けれど激しくなるプラズマと凄まじい引力に抗えず、遂に体が離れた。
するっと外れる手…。
「めい…ちゃ…」
「サタン様!」
姿が見えないほどのプラズマに捕らわれたサタン様が、あっという間に小さくなった。
そして暗闇に包まれた直後、引力から解放される。
ようやく呼吸ができたその時、風船に乗ったようにふわりと体が浮き上がった。
水面のようなところから、ぷかっと顔だけ出る。
「…!?」
そこは、見覚えがあった。
目の前に広がるのは、おとぎ話に出てきそうな幻想的な美しい森。
小鳥のさえずりとやわらかな木漏れ日が、本当に美しい。
「御祓の泉…?」
水面を見ると、虹色に輝いていた。
(間違いない。)
(でも、ここにいてはマズイ!)
私は慌てて畔へ上がる。
そこに、草木を踏みしめる足音が聞こえてきた。
(!)
私はとっさに、木陰に身を隠す。
息を潜めていると、ふらりと白い影が現れた。
それは、負のオーラに暴露して髪も瞳も黒く染まった陽だった。
陽は衣服を脱ぐと、倒れ込むように泉に身を沈める。
泉に浮かぶ顔色は青白く、苦しげに歪んでいて息も絶え絶えという様子で、胸が痛んだ。
かつてのリカと、姿が重なる。
リカは回復に一日かかる、と言っていた。
でも、フェアリーの力だとあっという間だった。
ゼウスという役割の負担の大きさは、リカを見ていて痛いほど感じている。
(…陽。)
思わず心の中で名前を呼んでしまった瞬間。
力なく閉じられていた陽の瞳が、カッと見開かれた。
黒い瞳が鋭く光り、辺りをぐるりと見回す。
(しまった!)
(思考を閉じないといけないんだった!)
慌てて両手で口を抑え息を潜めたけれど、もう時すでに遅し。
陽はこちらを見つめ、そのまま泉からゆっくりと上がってきた。
(!!)
恐ろしさに、体が小刻みにふるえ始める。
(…リカ!)
心の中で叫んだ瞬間、目の前の茂みが大きく掻き分けられた。