⑤全能神ゼウスの神
異変
割れた珠の欠片でついた傷が、ピリピリ痛む。
「めい、頬に傷が…。」
リカが僅かに目を見開いて、私の頬に手を伸ばそうとした、その時。
「ぐっぅ!」
お腹に凄まじい圧迫を感じ、息が詰まる。
「ヘラ…なにを…?」
「げほっげほっ…」
うずくまりながら咳き込む私をリカが一瞬抱きしめた後、シャボン玉で包んだ。
「杖を返しな。ヘラ。」
そう、ヘラ様に杖で腹を突かれたのだ。
リカは立ち上がり、手を伸ばす。
すると、ヘラ様は妖艶に微笑みながら、杖を背に隠した。
リカはそんなヘラ様を無機質な表情で、ジッと見つめる。
(思考を読んでる?)
お腹にだんだんと感覚が戻り、痛みが強くなってきた。
私は堪えられず、シャボン玉の中で倒れ込む。
リカが素早くこちらをふり返った。
(…大丈夫。)
声は出ないけれど、心で伝える。
(大丈夫だから、ヘラ様を助けて…。)
(ヘラ様の様子は、どう考えてもおかしい。)
(何か悪いことがきっと起きている。)
(ヘラ様は、今苦しくて辛いはず…。)
私の思いを読んだリカは、苦しげに表情を歪めた。
唇をきゅっと噛みしめると、小さく頷きヘラ様に向き直る。
「ヘラ。」
リカは優しい声色で、ヘラ様の名を呼んだ。
ヘラ様の碧眼が、リカをとらえる。
「無事だったんだな。…ほんとに良かった。」
言いながら歩み寄ると、リカはヘラ様の頬にそっと触れた。
すると、ヘラ様はリカの手に自分の手を重ね、その頬をすり寄せる。
「探したけど見つけられなくて…守れなかったって、ものすごく後悔してた。」
リカは反対の腕で、ヘラ様を抱きしめた。
「私、魔導師なんだ、今。」
至近距離で視線を合わせながら、リカが微笑む。
「もうゼウスじゃないから、こうやって抱きしめることができるようになった。」
ヘラ様は、杖を持ったままぎゅっと両腕でリカに抱きついた。
その瞬間、杖がゴトンと重い音を立てて床に転がる。
後ろに転がった杖を、さりげなくリカはシャボン玉に包み、私の方へ蹴飛ばしながら言葉を紡いだ。
「ヘラ、助けるのが遅くなってごめん。」
リカの逞しい体に深く抱き込まれたヘラ様は、その体をきつく抱きしめ返す。
リカは、そんなヘラ様の首筋に顔を埋めると、しばらく無言になった。
だんだんと痛みがやわらいできた私は、シャボン玉の中で身を起こす。
その瞬間、リカの肩越しにヘラ様と目が合う。
「!」
とんでもない殺気のこもった視線に、私の心臓がどくりとふるえた。
(…リカ。もしかしたら、誤解されてるかも…。)
(あなたと私が特別な関係になったと思われてるかもしれないから、きちんと伝えて安心させてあげたほうが…。)
「ヘラ。」
私の訴えを遮るように、リカは身を起こしながらヘラ様を見下ろす。
名前を呼ばれたヘラ様は、リカを見上げた。
その碧眼は、くすんだ色をしている。
(湖のように澄んだ美しい碧眼だったのに…。)
リカは腕を解きながら、優しく微笑んだ。
「あなたは死んでなお共に過ごせる、かけがえのない大切な存在。」
ヘラ様の頬を、リカが骨張った指でするりと撫で下ろす。
その時、ヘラ様のブルーグレーの瞳が私をとらえた。
リカはその視線をたどって、私をふり返る。
「ああ、めい?」
言いながら私を一瞥したけれど、すぐにヘラ様に向き直った。
「めいは…」
リカが何と答えるのか、緊張して胸がドキドキ高鳴る。
それはヘラ様も同じなのか、リカをジッと見つめた。
そんな女ふたりの注目を一身に集めたリカは、飄々とした笑顔で答える。
「食後のデザート。」
「…。」
僅かに驚いた様子のヘラ様は、疑いの眼差しをリカに向けた。
「…くっ。」
リカは口元に拳を当てて、おかしそうに笑い出す。
(…うん。でしょうね。)
私は小さくため息を吐くと、そもそも期待していなかったと自らに言い聞かせた。
「ほんとは、サタンから預かってるだけ。」
(…え?)
思いがけない言葉に驚いた私を、リカは一瞥すると首を少し傾ける。
笑顔なんだけれどその表情はとても冷たく、心臓が嫌な音を立て始めた。
「こいつは今、サタンのもんだから。」
(なんでそんなこと…。)
「サタンがもうすぐ迎えに来る。」
「…え?」
驚く私に、リカは冷ややかな笑みを深めながら頷く。
「だからサタンが来る前に、ちょっと味見してただけ。」
「…。」
ヘラ様は納得したのか、ふいっと顔を背けるとカウチへ腰を下ろした。
リカはそんなヘラ様をチラリと見ると、シャボン玉を割って杖を拾い上げる。
「サタンとの待ち合わせ場所まで、送って行ってくるな。」
「…やっ!」
動揺する私をリカは無表情で見下ろし、ヘラ様へやわらかな笑顔を向けた。
「ちょっと待ってて。」
そう言い残して、有無を言わさず私をシャボン玉に入れたまま連れて部屋を出る。
静かに閉まる扉を、リカは固い表情で見つめた。
「…リカ。」
「リカ『様』。」
私の言葉に被せるように、圧し殺した声でリカは低く鋭く言う。
「敬語も、忘れんな。」
リカは険しい声色で囁くように言いながら、足早に廊下を歩いた。
「…はい。」
訳がわからないけれど、とりあえず頷く。
「おや魔導師長、どちらへ?」
ギルが声をかけてきた。
リカは立ち止まってふり返ると、ギルへ鳥を飛ばす。
(あの鳥、どこから!?)
ギルは肩に止まった鳥が歌った歌で、リカの指示を理解したようで、瞬時に表情をこわばらせた。
「…わかりました。」
頭を下げて踵を返すと、ギルは足早に立ち去る。
「…なに?」
「敬語。」
「…なにが起きてるんですか?」
「おまえに関係ない。」
「!」
(『おまえ』。)
その一言で、再びリカとの心の距離が開いたことを知った。
「関係なくな」
「黙んな。」
鋭く遮られ、その気迫に二の句が継げなくなる。
黙りこんだ私を横目でチラリと見た後は、リカはもうふり返ることはなかった。