田舎道のサナトリウム
この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
研究所
「白石君。君に使いを頼みたいんだが」
「はい、いいですよ」
白石と呼ばれた男は、今年三十歳になる、とある大学の薬学研究所の助手をしていた。彼に使いを頼んだ人は、この研究所の所長であり、大学の名誉教授である星野教授だ。星野教授の研究所には数名の助手がいるが、用を言いつける時はほとんどが白石助手であった。
彼はこの研究所では一番の新米で、ただ、やる気と薬学に対しての知識は、年齢に相応するに余りあるほどであった。そんな白石助手を星野教授が重用するのは、当然のことであった。
今年で五十五歳を迎える教授と、三十歳になる助手。
「教授の域に達するまでには、俺なんてまだまだだ」
と言っている白石だったが、
「彼は、わしの若い頃によく似ているんだ。何と言っても、若い頃に会ったことがある人にソックリなんだ」
と、飲み会などになると、よく言っていた。
「へえ、そうなんですか。光栄ですね。僕と教授とは運命の糸で結ばれていたのかも知れませんね」
と白石が返すと、
「いやいや、男と結ばれていてもねぇ」
と教授も酔った勢いで、饒舌だった。
普段は無口な星野教授だったが、それに輪を掛けて無口なのは、白石助手だった。
「私はこれでも、若い頃には結構モテたものなんだよ」
と教授が言うと、他の連中が面白がって、
「それはおいくつくらいのことですか?」
「あれは、三十代後半か、四十代前半というところかな?」
「結構、年齢が行ってからなんですね?」
「いやいや、そんなことはない。男は三十後半からが魅力を醸し出すというじゃないか。わしもその一人だと思って痛んだよ」
教授は、若い頃から研究に没頭し始めると、まわりのことがまったく目に見えなくなるところがあった。まだ助手の頃から特にそうで、助教授、教授と上り詰めるうちに、次第に落ち着きや余裕を持つようになってきたのだ。そのせいもあって、三十代前半までは、女性に目が行くはずもなく、そんな教授を女性も気にするはずもなかった。当然、結婚もせず、
「俺は一人がいいんだ」
と言っていた。
友達と言っても、研究員の仲間くらいなので、プライベートな話ができる相手もいなかった。本音を打ち明ける相手もおらず、若いうちはそれでもよかったが、四十歳くらいになってから、初めて好きな人ができたと年齢を重ねてから口にするようになった。
その人とはどうなったのか分からないが、結局結婚はしなかった。
「結婚なんて、別にしなくてもいいさ」
「女性っ気がないと寂しくないかい?」
と人から言われても、
「そんなことはないよ。彼女と知り合ってから、少し甘い夢を見させてもらったけど、それだけで十分だ。彼女と知り合ったおかげで、今の俺はあるのであって、そのおかげで、孤独を寂しいとは思わなくなったんだ。そういう意味では彼女に感謝しているし、これでよかったんだって感じている」
これが教授の話だった。
四十歳頃、初めての恋をした教授は、それを夢か幻のように感じていた。
――これが最初で最後のチャンスなんだろうな――
と感じていたのも確かなことだ。
それだけに自分の人生の方向性が固まったのは、この時だったのだろう。ちょうどその頃に教授は研究に成功し、教授になった。運命の歯車が噛み合った瞬間だったのだろう。それ以降の教授は階段を着実に上っていき、今の名誉教授という地位を確立したのだ。
教授の研究は、孤独の中にある寂しさから生まれたのかも知れない。それまで、自分の研究に自信を持っていながら、たまに襲ってくるいい知れぬ恐怖の正体が何なのか、分からないでいた。考えれば考えるほど、奥深く入り込み、まるで底なし沼に嵌ってしまったかのように感じたのだ。
――底なし沼に嵌ってしまうとどうなってしまうのだろう?
やがて、顔がすべて埋まってしまって、呼吸もできず、必死にもがいている自分を思い浮かべる。呼吸が止まって死に至るまでの苦しみを、どのように想像すればいいのだろう?
そんなものを想像できるはずもない。実際に死んだことがあるわけでもなく、死というものに対して、どうしても他人事に思ってしまう自分を感じる。それが死に対しての恐怖だとするならば、他人事だと思っていながらも、恐怖は抜けない。そんなことを考えていると、
――死ぬということの何が恐ろしいというのだろう?
と感じてきた。
死んでしまうと、楽になれると思っている。だから、それまでに襲ってくる苦痛が死に対しての恐怖だと思うのだ。他人事であれば、苦しみだして死に至るまでの時間は、それほどでもないように見えるが、実際に自分のこととして直面してしまうと、死に至るまでが、
――永遠に果てしなく感じられるのではないか――
と感じ、それが恐怖の正体だと思うのは無理もないことだ。
恐怖の正体とは、まず最初に感じるのは、目の前に見えていることである。
なぜなら、恐怖というのは目に見えないものであるから、まずは正体を見極めるには、目に見えるものでなければならないと感じる。そう思うと、どうしても一番身近なものから発想していくのは当然のことであり、目の前にあるのは、
――死に直面した時に感じる苦痛だ――
と感じるのだ。
ただ、それは教授のように、自分を孤独だと思っている人が感じることなのだろう。生きていく上で、大切な人がいて、例えばそれが家族であり、自分の妻であったり子供であったりすると、恐怖という意味合いが変わってくる。
「妻や子供が悲しむ」
であったり、
「もう家族と会えないなんて、ありえない」
という思いが頭を巡って、その思いが苦痛よりも上回ってしまう人も少なくはないだろう。
教授も、
「もし、わしが死んだとして悲しんでくれる人がいるとハッキリ分かっていれば、死に対して違う恐怖を感じるかも知れない」
と思っていた。
家族もいない教授にとって、家族というものがどういうものなのか分かっていないこともあって、自分が死んでも、本当に家族が悲しんでくれるかどうかすら、信じられないと思っていた。
そんなことを口にすると、
「そこまで卑屈になる必要はないですよ。そんなことを思っていると、人生、面白くもなんともないですよ」
と言われることだろう。
しかし、教授は人生が面白くないとは思っていない。むしろ、一人でいる方が、まわりをいちいち気にしないですむので、気が楽だというものだ。
寝ていて、急に足が攣ってしまうことが時々あったが、そんな時感じるのは、
――まわりに誰もいなくてよかった――
という思いだった。
まわりに誰かがいれば、きっと、
「大丈夫ですか?」
と言って、余計な心配をするに違いない。
教授はそんな時、一人にしてほしい。他の人から心配そうにされてしまうと、余計に痛みを感じてしまい、緊張からか、さらに足が攣ってしまって、二重の苦しみを味合わされてしまうように思うのだ。
――だから、わしは孤独がいいんだ――
と思っていた。
――孤独というものは、寂しさと一緒に考えるから辛いんだ――
研究所
「白石君。君に使いを頼みたいんだが」
「はい、いいですよ」
白石と呼ばれた男は、今年三十歳になる、とある大学の薬学研究所の助手をしていた。彼に使いを頼んだ人は、この研究所の所長であり、大学の名誉教授である星野教授だ。星野教授の研究所には数名の助手がいるが、用を言いつける時はほとんどが白石助手であった。
彼はこの研究所では一番の新米で、ただ、やる気と薬学に対しての知識は、年齢に相応するに余りあるほどであった。そんな白石助手を星野教授が重用するのは、当然のことであった。
今年で五十五歳を迎える教授と、三十歳になる助手。
「教授の域に達するまでには、俺なんてまだまだだ」
と言っている白石だったが、
「彼は、わしの若い頃によく似ているんだ。何と言っても、若い頃に会ったことがある人にソックリなんだ」
と、飲み会などになると、よく言っていた。
「へえ、そうなんですか。光栄ですね。僕と教授とは運命の糸で結ばれていたのかも知れませんね」
と白石が返すと、
「いやいや、男と結ばれていてもねぇ」
と教授も酔った勢いで、饒舌だった。
普段は無口な星野教授だったが、それに輪を掛けて無口なのは、白石助手だった。
「私はこれでも、若い頃には結構モテたものなんだよ」
と教授が言うと、他の連中が面白がって、
「それはおいくつくらいのことですか?」
「あれは、三十代後半か、四十代前半というところかな?」
「結構、年齢が行ってからなんですね?」
「いやいや、そんなことはない。男は三十後半からが魅力を醸し出すというじゃないか。わしもその一人だと思って痛んだよ」
教授は、若い頃から研究に没頭し始めると、まわりのことがまったく目に見えなくなるところがあった。まだ助手の頃から特にそうで、助教授、教授と上り詰めるうちに、次第に落ち着きや余裕を持つようになってきたのだ。そのせいもあって、三十代前半までは、女性に目が行くはずもなく、そんな教授を女性も気にするはずもなかった。当然、結婚もせず、
「俺は一人がいいんだ」
と言っていた。
友達と言っても、研究員の仲間くらいなので、プライベートな話ができる相手もいなかった。本音を打ち明ける相手もおらず、若いうちはそれでもよかったが、四十歳くらいになってから、初めて好きな人ができたと年齢を重ねてから口にするようになった。
その人とはどうなったのか分からないが、結局結婚はしなかった。
「結婚なんて、別にしなくてもいいさ」
「女性っ気がないと寂しくないかい?」
と人から言われても、
「そんなことはないよ。彼女と知り合ってから、少し甘い夢を見させてもらったけど、それだけで十分だ。彼女と知り合ったおかげで、今の俺はあるのであって、そのおかげで、孤独を寂しいとは思わなくなったんだ。そういう意味では彼女に感謝しているし、これでよかったんだって感じている」
これが教授の話だった。
四十歳頃、初めての恋をした教授は、それを夢か幻のように感じていた。
――これが最初で最後のチャンスなんだろうな――
と感じていたのも確かなことだ。
それだけに自分の人生の方向性が固まったのは、この時だったのだろう。ちょうどその頃に教授は研究に成功し、教授になった。運命の歯車が噛み合った瞬間だったのだろう。それ以降の教授は階段を着実に上っていき、今の名誉教授という地位を確立したのだ。
教授の研究は、孤独の中にある寂しさから生まれたのかも知れない。それまで、自分の研究に自信を持っていながら、たまに襲ってくるいい知れぬ恐怖の正体が何なのか、分からないでいた。考えれば考えるほど、奥深く入り込み、まるで底なし沼に嵌ってしまったかのように感じたのだ。
――底なし沼に嵌ってしまうとどうなってしまうのだろう?
やがて、顔がすべて埋まってしまって、呼吸もできず、必死にもがいている自分を思い浮かべる。呼吸が止まって死に至るまでの苦しみを、どのように想像すればいいのだろう?
そんなものを想像できるはずもない。実際に死んだことがあるわけでもなく、死というものに対して、どうしても他人事に思ってしまう自分を感じる。それが死に対しての恐怖だとするならば、他人事だと思っていながらも、恐怖は抜けない。そんなことを考えていると、
――死ぬということの何が恐ろしいというのだろう?
と感じてきた。
死んでしまうと、楽になれると思っている。だから、それまでに襲ってくる苦痛が死に対しての恐怖だと思うのだ。他人事であれば、苦しみだして死に至るまでの時間は、それほどでもないように見えるが、実際に自分のこととして直面してしまうと、死に至るまでが、
――永遠に果てしなく感じられるのではないか――
と感じ、それが恐怖の正体だと思うのは無理もないことだ。
恐怖の正体とは、まず最初に感じるのは、目の前に見えていることである。
なぜなら、恐怖というのは目に見えないものであるから、まずは正体を見極めるには、目に見えるものでなければならないと感じる。そう思うと、どうしても一番身近なものから発想していくのは当然のことであり、目の前にあるのは、
――死に直面した時に感じる苦痛だ――
と感じるのだ。
ただ、それは教授のように、自分を孤独だと思っている人が感じることなのだろう。生きていく上で、大切な人がいて、例えばそれが家族であり、自分の妻であったり子供であったりすると、恐怖という意味合いが変わってくる。
「妻や子供が悲しむ」
であったり、
「もう家族と会えないなんて、ありえない」
という思いが頭を巡って、その思いが苦痛よりも上回ってしまう人も少なくはないだろう。
教授も、
「もし、わしが死んだとして悲しんでくれる人がいるとハッキリ分かっていれば、死に対して違う恐怖を感じるかも知れない」
と思っていた。
家族もいない教授にとって、家族というものがどういうものなのか分かっていないこともあって、自分が死んでも、本当に家族が悲しんでくれるかどうかすら、信じられないと思っていた。
そんなことを口にすると、
「そこまで卑屈になる必要はないですよ。そんなことを思っていると、人生、面白くもなんともないですよ」
と言われることだろう。
しかし、教授は人生が面白くないとは思っていない。むしろ、一人でいる方が、まわりをいちいち気にしないですむので、気が楽だというものだ。
寝ていて、急に足が攣ってしまうことが時々あったが、そんな時感じるのは、
――まわりに誰もいなくてよかった――
という思いだった。
まわりに誰かがいれば、きっと、
「大丈夫ですか?」
と言って、余計な心配をするに違いない。
教授はそんな時、一人にしてほしい。他の人から心配そうにされてしまうと、余計に痛みを感じてしまい、緊張からか、さらに足が攣ってしまって、二重の苦しみを味合わされてしまうように思うのだ。
――だから、わしは孤独がいいんだ――
と思っていた。
――孤独というものは、寂しさと一緒に考えるから辛いんだ――
作品名:田舎道のサナトリウム 作家名:森本晃次