黄泉明りの落し子 三人の愚者【前編】
ニコールは飛び起きた。
脂ぎった汗が、その不健康な顔面のあちこちに浮き出ていた。
目を爛々と見開き、口を半開きにして、彼は荒い呼吸を整える。ちょうど、泥水の中におぼれていた男が、急激に大気の中へ引き上げられ、空気を肺へと一気に送り込むかのように。
呼吸が整うにつれ、ニコールは周囲の観察を開始する。
月明かりも、星の明かりも見えないはずなのに、何故か前が見える。この粗暴者にはそんなことにまで疑問が及ぶような思考の力も――今は余裕さえもなかったが。
だが、彼は一つの違和感を五感で感じていた。吸い込む空気が、音のない周囲の大気が、やけにひんやりとしているように思えた。まるで、先ほどまでそこにいた何かが、忽然といなくなってしまったかのように。
彼は、まだくらくらする頭のまま、自身の鞄を漁った。取り出すのは、酒瓶だった。
酒瓶につられて――夕方にあったのと同じように――鞄から葉巻が転がり落ちた。
ニコールは少なからず慌てた。
彼がいる木の裏側を覗き込んだ。少し離れた所には、あの苛立たしい、しかし只者ではないだろうヌーマスがいる。
ニコールが安堵するのにそんなに時間はかからなかった。当人は、ニコールには背を向ける形で横になっていたのだから。
ニコールは老人から視線を離すと、酒を一気に煽った。
度数の高いウィスキーを、喉を鳴らして飲み干すが、彼は後悔することになった。ほんの数度喉を鳴らしたときには、その酒はすっかり空になってしまったのだった。
「ちっ……」
忌々しげに舌を鳴らしたそのとき、彼はある違和感に気付いた。
ルヴェン。
「……どこに消えた……?」
低く、静かに呟き、もう一度裏側を振り返る。
あの老人が横になっているが、あの神父の姿はなかった。
木の陰を眼を凝らして見つめても、よろけながら立ち上がり、周囲を見渡しても、あの男の気配はどこにもなかった。
思いなしか――彼は一つの物音を聞いた気がした。そっとおしのけられた葉と葉がこすれ合い、寝起きの人のように不機嫌そうに漏らす音。
ニコールは訝ったが、彼の中である直感が働いた。
特に理由はない直感。だが、決して快いものではない――嫌な予感。
他人がどうなろうが、この世がどうなろうが、俺にとってはどうでもいい。
彼はその考えを変えるつもりはなかった。
だが、彼は自分でも気づかないうちに、無意識に歩き始めていた。
音がした……ような気がする方向へ。自分に背を向けているヌーマスを起こさないように、細心の注意を払い、出来る限り足音を殺しながら。しかし決して遅すぎない速度で。
最初は勘に従って歩いていたが、この森の静穏は深かった。更に葉の擦れる音を聞き、それに従った。
気づけば焚き火を焚いていた場所から、大分離れていた。
ニコールの嫌な予感は、いよいよ高まっていた。こんなに遠くまで離れてまで何をしようってんだ?
次の瞬間、彼は歩みを止めた。
木陰に隠れ、今しがた自分が進もうとしていた方向を覗き込んだ。
漆黒の法衣が、ルヴェンの横顔が見えた。
若者の黒服は、この闇にはさぞかし溶け込むものに見えたが、紫がかったその色彩は逆にどこか浮いた感じを覚えさせた。影の中で焚く黒い煙のように。
彼は木を見上げていた。表情は見えなかった。その木にはいつの間に用意したのか、あるものがつるされていた。
先端が輪になったロープだった。
若き神父の足元には、彼が携行していた布袋がある。
今更気づいたが、それはやけに四角く、大きい荷物に思えた。
踏み台とするには、最適なほどに。
「野郎――っ!」
ニコールが全てを察すると同時に、若者はその荷物に足をかけ、ロープに手を伸ばした。
粗暴者は、もはや何も考えずに飛び出していた。
「おいっ!」
一気に距離をつめ、全身で突っ込んだ。
粗暴者と神父は共に倒れこんだ。湿り気を含んだ地面が二人を受け止め、震える。ルヴェンの眼鏡が、弾け飛ぶ。
粗暴者は体を起こし、仰向けの神父の胸倉を引っつかんだ。
「ルヴェン……神父野郎が……」
こみ上げるその怒り、激情。彼自身わけがわからなかった。
それらを押し殺すように、低い声で詰め寄る。
「てめえ、一体何考えてやがる……」
★続
作品名:黄泉明りの落し子 三人の愚者【前編】 作家名:炬善(ごぜん)