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蘭陵王…仮面の美少年は、涙する。

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彼女は Nam と握手し、私もその手を握り、日本人だよ、と Nam は言う。声を掛けられて奥から出てきた三十代の夫婦と子どもが、おびえた一瞥の後、また、それらの植物のような微笑の中で、差し出された手を私たちは握り、彼らも思ったはずだった、植物のようにやさしげな、と。私は微笑んでいて、握手を交わし、Người Nhật、Nam は彼らに言う、日本人です。声を立てて彼は笑い、私は彼らの前で日本人になる。片言の、だれでも知っている日本語を混ぜて挨拶し、こんにちは 善良な笑みを浮かべて ありがとう 礼儀正しくお辞儀し、「謝謝」という夫がかけた言葉を妻は早口に訂正して笑うが、 Nam に木の葉がふるえたような笑い声の中で話しかける彼らの言葉は私にはわからない。私は今、知っている。そのときに、私は、明らかに彼らはサリバン先生ではなく画家はヘレンケラーではない。自然状態ならば、普通に間引かれていたはずの生命体が、今も、こうして生きている。誰かしらが彼を介護し、彼は自分が何をされているのか、何をされたのかさえ何も知らない。アジノモト、ホンダ、という単語が時に聞こえ、私は笑いながら、Nam と彼らを交互に見やり、お前は知っているか?海を手に掴むことはできない。彼らは画家の叔父の娘夫婦なのだ、とNam は私に言い、私はうなづき、もう一度彼らの手を握り、たとえ、お前が海の中で溺れ死んだとしても、と、その瞬間にさえも、お前は海をその手に掴むことはできない。お前は知っているか?彼らは Nam に、彼は生まれたときから、と言い、Nam は私に通訳する、あんな感じだ、と、ずっと、今まで、変わることなく、彼らは言った、統一戦争のとき、60年代の終わりに。Nam はそう言い乍ら Bomb ! と手のひらをはじいて見せ、彼は言った、まだ彼は十歳になるかならないかだったが、とNam は、お前は何を語る?画家の右手はやさしく上下し、若かったからこそ助かったんだ、と、Nam が彼らの言うことを言うが、語って見せろ。…と、私は、それを聞き乍ら、画家の髪の毛の何本かは白髪だ。お前は、何を語る?海をいつかは、だが掴めもしないくせに、何かを語るすべさえないにしても、「いや」、と彼らは言った、không phải… 生まれたときから目も、と言い、その壊れた英語の発音とともに Nam は自分の目をふさいで見せるが、耳も、口も、と、もっと日差しか強ければいい、そして、こんなやさしい日差しの中では。彼は言った、何も見えないし、何も聞こえないし、生まれたときから、お前は何を語る?このやさしい日差しの中で、何も見えない静寂の中に、一言だってしゃべったことはないよ、と Nam は彼らの言うことを言う、生まれてから今まで、と、一言の音声をさえ、もちろん、存在しはしない。お前に知性など。かけらさえも。彼らの声を立てて笑った善良な笑い声が、語りうる記憶さえ一切持たないには違いない乍らお前は、そして、例えば、ここで、私がお前の喉を切り裂いたとしたら、今、彼の父親は若くして死んでしまったが、いつ?とNam は言った、彼に彼の祖父が絵筆を取らせたのは、と彼は彼らの言うことを言い、彼らが Nam に言ったのは、何を語る? Dạ… Dạ… 今ここでお前の喉を、もう十年も前になるがと彼は言い、もちろんお前には知性などありはしないのだから、không… Không phải いいえ違います、それは、何もせずに唯そこにいるよりは、しかし何もわかりはしないだろう、お前は。しかし、はるかにましだろうと考えたからだったが、Không phải là… お前の体は 違うんだよ 記憶するに違いないこの引き裂かれた喉の強烈な痛みを、何日かかって絵らしいものが、と Nam は言った、できあがったので、その忘れ得ないはずの苦痛を、毎日同じ時間に彼を座らせキャンパスの前に、私たちは、ありもしないお前の知性ではなく体の痛点そのものが確かに感じ取り記憶したこの苦痛を、毎日、絵筆を取らせれば彼はいつも絵を描くようになり、と彼らは、知性ではなく、おそらく、体そのものが覚えたのだろうその動きを、私は知っている、同じような絵らしきものを描くようになったが、お前の体そのものは記憶せざるを得なかった。そして、と、Nam は彼らの言うことを言い、例えば、しかし、私たちは祖父が死んだ後も、こうして私が再びいつかここに来て、少なからず、お金はもちろんかかるのだが、再び、ここで、私が、と、しかし、それは祖父の望み、と、Nam は、祖父の命じたことなのだし私たちは、かつてと同じようにお前の喉を同じように私が掻き切ったならば、いずれにしても、彼は絵を描き続けるのだから、間違いなく、お前の体そのものは思い出すだろう、私たちは絵を描かせるようにしているし、その苦痛を、お前の体は、再び、今では売却された少しばかりのお金で、その思い出された記憶とともに再び自分の血にまみれながら、彼は自分の食費くらいは出せるようになったのは、と彼は言い、何を語り始めるのか?その時に、祖父のおかげと言っていい。お前は?今、この時に、あなたは画家ですか?と彼が言うのを Nam はこぼれるような笑顔とともに伝え、私も首を振った。彼は絵が好きなんだ、と Nam は彼らに言ったに違いない。日本人だから。ややあって、通りすがりに老婆の手をとって握手をしてやり乍ら、私たちは3階の仏間とアトリエと彼の住居を兼ねた部屋に行き、本当に、どれも同じ絵ばかりだよ、と彼らは Nam に言った。開け放たれた道路沿いの窓から入り込む風がカーテンを揺らし、流しっぱなしの念仏の音声はひくく響きつづけるが、そこにあったのは、天井の高いベトナム風の建築の両方の壁中を埋め尽くした、あの、絵だった。すべての海に雪が降っていた。同じように、すべての絵は純白で、同じ絵など一枚もない。すべての絵が、全く、差異している。私は息を飲む。最早何ものによっても統御不能なそれらの、そして、何も聞こえはしない沈黙だけがそれぞれの差異だけを晒して、そこを支配する。いかなる類似さえない。個性を見いだす余地もない。私は想起する、揮、綺、畿、…という同音の日本語漢字の羅列はそれ自体としては意味を持たない。それらが同じ音を表音し得るという以外何ら無意味は線形の羅列にすぎないにも拘らず、それらが表意文字である限りにおいて、私たちはそれらの意味上の差異を指摘し得る。だが、日本語としてはそれらはその単独に於いて無意味な線形にすぎないのだから、その意味に差異の根拠を求めることはできない。起源としての中国漢字にその根拠を求めたとしても、現実的にいまや全く別のものなのだから、目の前にあるその意味上の差異を正当化することはできない。にも拘らず、揮、綺、畿、…はそれぞれに全く差異していることを、私たちは知っている。私はそれらの群れを見つめているのだった。視線を縦にずらしても、横にずらしても、楊、曜、耀、…この、無言の明らかな単なる差異が目を覆いつくし、膨大なこれらの集積が、もはや、何の絵であるのかさえこの目に捉えきれないまま、私には、息を飲み、立ちつくす。