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蘭陵王…仮面の美少年は、涙する。

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息を吸い込むと、一気に流れ込んだ空気に眼舞う。あと5年と3ヶ月で世界が崩壊するという物理学的なニュースが世界中を駆け巡って、今日も私は朝早く、日の昇りかける頃に目を覚ます。あれが2ヶ月と何週間か、記憶は正確ではないままに、まだこのあたりが雨季の雨の降り続ける頃だったのだから、いずれにせよ世界はあと5年と数日で崩壊することになる。ベトナム[Việt Nam]、ダナン市[Thành phố Đà Nẵng]の朝は、夕暮れるような斑らな赤に空を染めて明けて行く。私はいつもの露店のカフェに行く。このベトナム中部の町の人たちに、旧正月[tết]前後、彼らが冬と呼んだ期間に、朝から晩まで降り続き降り止まない雨の中で、これは雨期の雨なのかと尋ねれば、必ずすぐさま、そうではない、と彼らは言った。雨期と乾期しかないサイゴン[Sài Gòn]と一緒にしてはならない。ここにはちゃんと四季が存在する。総じて彼らが見せたせっかちな憤りを見乍(なが)ら私はいつも、ともあれ確かにここは亜熱帯には違いなく、熱帯では、まだ、ない。日本よりも明らかに太陽に近い、力をたたえた剥きだしの光線に、サイゴンで、私は太陽の荒々しい素顔を垣間見せられた気がしたのだったが、先に来ていた Quần クアン が私に手を振り、奥の、彼の叔母に向かって甲高い声を上げたそのQuần の顔は、痩せた上にさらに痩せさせて、筋肉だけ張らせたような体躯の上に、声を立てて笑っていた。ペンキ塗りの Quần の服は朝からペンキに汚れていたまま、この世界は終わりはしない。終わったことなどなかった。何も。不意の中断、あるいは消滅、もしくは崩壊するだけだ。おそらくは気づくことすらない一瞬のうちに、と、それはまだ誰も知らない。Em có biết cuối 存在の終わりを của có không ? 私は 知っていますか? 知っている。それは膨大な、かつシンプルな数式がはじき出した、すでに証明された未来であって、私に言うべきことは何もない。言い得ることもなにもなく、私が日本から逃げるようにしてここへ来てからもう3年近くになった。あるいはそれ以上に。私は知っていた、日本を離れるときの当時の恋人は私がここで結婚したことをまだ知らない。その、理沙と言う名の、あるいは、彼女はすでに知っていたかもしれない。いつか。そして多くの議論がなされたものだった。その、この世界の完璧な崩壊の完全証明が発表されたときには、インターネットで、ソーシャルメディアで、たとえば Twitter や Face book で、彼女も知ったかもしれない。私は知らないが、すでに彼女は私の結ばれた事実を、たとえば誰かの私の知らないままのタグ付け、シェア、いいね、Like, Thích, 私がまだ、あるいは永遠に知らない何かで、少なくとも、私のまだ知らないときに。インターネットで、そのときに、膨大な声明らしきものが膨大な個人たちから発せられた。バチカンや、チベットの、法王と名のつくありとあらゆる人たちよりもむしろ早く、世界の存立そのものにかかわり、かつ、あからさまな世界の崩壊の留保なき日程を明示したその完全証明に、しかし、結局は何をも言っていないに等しい。それらのすべては、あの法王たちのそれがそうだったのと同じように。ざわめき立った語っても仕方がないものに対する沈黙に等しい饒舌が、世界を、あるいは正確に言うならば、WiFi と LAN ケーブルで結ばれたデータ空間の中を、埋め尽くしてやまないこともある。自分の無意味さなど承知の上で。説教文を読み上げるような声明の中で、にもかかわらず、最終的には、私たちはまだ何も知らないのだ、そのときに何が起こるのかを、と彼は言った。バチカンで、彼の宗徒たちを前にして、インターネット動画と、テレビ画面と、書き取られた活字媒体の中で、彼らの法王は、ゆえに、主よ、御心のままに、と、かつてその御子の言われたそのままに私たちもこう繰り返すのです、主よ、御心のままに、そして彼は、すべては終わったのだ。主のぶどう酒に囲まれて、乾くことさえなく。チベットでは、経典のもっとも難解な対話編についての講義解釈のような声明を通して、それがまさにそうであるならばそうでしかなく、そうなって行くならば行かざり得もせず、私たちもまた、逝くのだ、生きに行きて、逝くものとして、と。そして彼は目の前の膨大な弟子たちの群れの向こうに、さまざまなメディアでその声を飛ばさしめながら、今朝、家に住みついている猫は壁を這うトカゲを上目遣いにじっと見つめ、しかも狩るわけではない。彼女はしばらく静止し、私にはわからない。父と母はまだ生きているはずだ。日本で。詳しいことはわからない。クォーク粒子にかかわるそのニェット=ロン予言と呼ばれるそれがカンボジアの大学の研究チームによって発表されたのがさらにその5年ほど前らしいが、諸粒子の不安定さにかかわるこの論文において、若いカンボジア人とかなり年長のラオス人は、つまり、無限に小さく、無限に強く、無限に早いがゆえにそれ自身の質量を持ち得ない力の確定量の束があり、それらの衝突の副産物が粒子なのだ、と仮定した。衝突し得るこの確率論の結果的産物としてこの世界そのものが存立し得ているに過ぎない以上、そのすべてがすれ違い、一切衝突のないある決定的な一瞬があるはずだ、と予言する。これは、もちろん、その瞬間にすべての継続性が断ち切られ、この瞬間に世界と呼ばれ得る現実そのものが崩壊することを示唆した。自らの可能性そのもののあり得べき必然として、世界はその当然の結果として消滅するのだが、Anh…, ねぇ anh…, と Quần の手が ねぇ、そっと …ね。私の手に Anh 兄さん。やさしくふれ、Quần の短く刈られた髪の毛に朝の光がするどく刺して、それは白い煌きを …もう 彼の半身に ご飯、点在させ、食べた? Cơm chưa ? 彼は言い、Quần はベトナム語しか知らないから、その言語をほとんど解さない私にも、それを十分知っているにもかかわらず頑なにベトナム語でしか語りかけない。私は耳を澄ます。それらに。私は彼の言葉に、目つきに、表情に、仕草に、気配に目を凝らし、息をさえつめながら、そして私たちは希薄で親密な隔離された固有の空間をいつものように形成していた。Chưa. と私は まだです。彼に答え、笑いかけ、その言葉の響きを何度か自分の耳の中にもてあそび、ややって、了解した Quần は顔をほころばせ乍ら、私は知っている。私は記憶していて、だから、それを思い出すことができる。理沙は私がいくつも画策し企画し続けたインターネット上の代理集客ビジネスが、ある一定の結果を出した後は急速に速度を失って、ことごとくやわらかい袋小路に行き止まりかけたときに、そして「逃げたいのはわかるけど」理沙は言って、「…ね?」私がある友人の紹介で、飲食店の海外出店にかかわるコンサルティングの話に飛びついたときに、でも、と、彼女は言った。世界のどこへ行っても逃げられないんだよ。「何から?」まだ20歳を少し超えたばかりの理沙の言葉を、逃げるって、その肩の上で 何から? 切りそろえられた短めの髪の毛ごしに、…何から? その女はや