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蘭陵王…仮面の美少年は、涙する。

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涙さえも何か語るべき表情を持たず、この美しい表情を間歇的に引きつらせ乍ら、ただ、それは流れ落ちる。私は思い出す。一年ほど前の昼下がり、めずらしく私と妻の寝室をHồはノックした。足先で、しずかに叩いて鳴らしたのだった。妻は結婚式に行っていた。私がドアを開ければ、Hồ は自分の部屋であるかのように音もなく入ってくると、一度、小さくあくびをした後で振り向き、唐突にわたしの唇にキスし、声を立てて笑った。小さく。それが当然の行為であるかのように。天井近くに開けられた小さな通風孔の列が白んだ日差しをそそぎ、もうすぐ雨になることを暗示する。ダナン市の雨季の、お決まりの色彩と暗示。ベッドに横たわったままの私をまたぎ、Hồ は私の頬に触れる。Em làm gì ? 何を 私は してるの? 言い、私の言葉を Sao vậy ? たぶん どうしたの? Hồ は聞き取れなかった。音調言語のそれらは正確な音調をなぞられずに唯の音声となって、誰にも触れられることなく消滅して行く。不意に思いついて Hồ は、小さく、短い笑い声を立て乍ら私の手を彼のそこに当てる。私は瞬き乍ら、そして短パンの中に差し込まれた私の指先は彼のそこに直接触れるものの、やわらかく薄い巻き毛の触感しか探り当てなかった。私は眉をひそめ、戸惑いを隠さないまま、ややあって、gái ? と 女の子? 言う。Hồ は一度聞き取れない振りをした後で、もう一度笑い、ふたたびわたしを見つめ、trái. と言った。…男の子だよ。まだ幼さを残した唇は押し当てられ、渇望にまかされるまま Hồ は私の衣服に手をかけ、剥ぎ取って行く。彼の息がかかり、皮膚が彼の体温を感じ取る。向こうで放し飼いにされた鶏が時にわななき、間歇的に羽音が立つ。私の身体は、あきらかな少女の身体を愛し乍ら、彼は私を愛していた。私を見つめ、Hồ はしばらくの沈黙の後で私にふたたび口付ける。あの時と同じように。私の唇を、彼の乾ききらないペンキが汚したかもしれない。かすかに。なぜ?わたしは思った。



画家の乾いた血は最早匂いさえ伝えない。君が? なぜ? ちゃいでぃ…、と、Hồ は言った。cháy đi 火を放て? 私は、…chảy đi 消してしまえ、Hồ の唇に触れようとし乍ら、一瞬、戸惑い、…Chạy đi 逃げろ、Hồ の言った意味を探り当てる。何から?私はバイクにまたがり、君からか?私はそれを、君のその美しい視線の先からか?走らせるが、君が逃がしはしないはずなのに?私は知っている、Hồ は昨日の夜、顔にペンキを塗るに違いない。彼は木彫りの面を撫ぜていた。ペンキを引っ張り出してくる前に、そんなことさえまだ思いつきさえしないままに、それは骨格の太いチャンバ[林邑]風の化け物か神か仏だかの面だが、それが何の動物をモティーフにしているのか、彼はまだ知らなかった。顔に彼がペンキを塗り終わったとき彼は立ち上がり、窓越しの風に顔を晒し、ペンキが乾いていくのを皮膚に感じた。彼は知っていた、彼が聞いたことのある日本の神話の暗殺者のように、風が何かの魂を彼に植え付けるかもしれなかった。すぐ近くのドラゴン・ブリッジの周辺の、夜毎のイベントの騒音が小さくかすかに耳に入ってくるに違いなかった。彼は面をつける。Thô の部屋のドアを足先で叩く。何の遠慮もなしに無造作にドアは開いたに違いないが、鍵などかけることなどなかった。いつものように。やわらかい月の光が降り、離れた先の街灯の向こうは町の照明で朱に染まっている。Thô は不意に驚きの息を漏らしていた。唐突に現れた仮面の小さな存在に、

なぜ?

と、朱の光源の中をいくつものバイクが通り過ぎていることは知っている。その音は連なりあうままに聞こえていた。彼はややあって、その音は聞こえ続けていた。小さく笑い、奇妙なしぐさで踊って見せ乍ら、その音は聞こえ続けていたのだった。彼は声を立てて、笑ったông Thôは凍りついたように動かない。

なぜ?

Thồ は思い出したように自らの唇を指先で撫ぜ、

なぜ?

撫ぜ、押しつぶして確認するように、 Hồ はペンキが乾いたかどうか手で確かめている。風がやわらかく、決して暑くはなかった。Hồ は不意に、面をはずしていた。乾ききったペンキが微かに罅割れ声を発さないまま口を広げて目を剥く。Thô の体が崩れ落ちたのに気付いたとき、すこしの衝撃が、 しかし確実にThôの老いさらばえた心臓を打ち砕く。使い古され、干からびかけた心臓を。

なぜ?

ささやかな遊びに過ぎなかったはずのそれがもたらした結果を、訝しげに眺め乍ら Hồ は結局のところ自分が何をしたのか確認しなければならなかった。自分は人を殺してしまったのだろうか? Hồ は思っている。

なぜ?

猫は一度も鼠を殺したことがない。

なぜ?

例えば、と彼は思った、猫の頭を撫ぜ乍ら、彼が殺すべき人間は彼ではなかったはずだ、と彼は思った。例えば、と、誰を?例えば、彼は思った、彼は、彼を殺すべきはずだった、と彼は思った、彼は、彼の、愛の対象、なのかどうか彼自身にも未だ定かではなかったが、にもかかわらず確実に、そして愛しい彼を、あの、彼を、あんなに不安にさせたには違いないと彼が思ったはずの彼のような存在を、彼は、彼が殺すべきなのでは彼ではなく、君は殺してしまった、彼の、君が誰も殺さなかったその時に、猫がかつて一匹の鼠も殺せなかったというのならば。

夜はまだ浅い。どこかで誰かが始めた飲み会が、その彼の家の前の路面に出されたプラスティックのテーブルを囲んでまばらに繰り広げられている音がする。