旧説帝都エデン
ダーク・ファントムは楽しそうに笑ってハルナに近付く。
「あははは、つまりこういうことだろ。門を召喚しなきゃこの女を殺す」
その問いの答えなのかセーフィエルは妖しく微笑んだ。
悩む時雨。
「ボクにはわかってるんだ。意識が流れ込んでくる。彼女の……彼女は絶対にダメだって言ってるんだ。でも……ボクはハルナを……救いたい!」
時雨はハルナに向かって走った。
その前に立ちはだかるセーフィエル。
「それ以上進めて?」
「ッ!?」
驚く時雨。
足が動かない。前に進もうとしても足が地面に張り付いてしまったように動かないのだ。
セーフォエルは微笑んだ。
「影縫いよ。あなたの影と地面を固定したから、そこから動くことはできないわ。足を切断しない限り。足を切断する覚悟があっても、斬る物もなければ、そうしようとしても今度は全身を縫って差し上げるけれど」
「ハルナを解放しろ!」
「それはあなた次第よ」
この場でハルナを救えるのは時雨のみ。
しかし、時雨は口を噤んでしまった。
痺れを切らしたダーク・ファントムはハルナの腕にそっと触れた。
「キャァッ!」
ハルナが漏らした短い悲鳴。
ほんの少しだけ、指先で一瞬触れられただけなのに、腕には小さな黒い痣が出来てきた。
ダーク・ファントムが素早く時雨に近づき、その顔を舐めるように下から見上げた。
「強い強い〈闇〉の中では人間は生きていけないんだよ。アタシは〈闇〉そのモノだから、アタシに触れられた人間の皮膚は腐食しちゃうんだ」
再びダーク・ファントムはハルナの近くまで戻り、
「人質が1人しかいないときは殺したら意味がないんだよね。殺しちゃったら相手が従う理由がなくなっちゃうし。だからこうやって痛めつけられる光景を見せつけてやるんだ」
闇色の手がハルナの脚に触れた。
「アアアアーーーッ!!」
ハルナの悲痛な叫び。
思わず時雨は耳を塞いだ。
手の跡がくっきりとハルナの脛に残っていた。
それを見てしまった時雨は耐えることができなかった。
渦巻く意識の中でシオンが訴える。
しかし、その訴えは時雨には届かない。時雨にとっては目の前で起きていることが現実だった。
〈裁きの門〉が開かれたらどうなるか、それよりもハルナが傷つくという現実に時雨は耐えられなかった。
「もう……やめて……ハルナには……手を出さないで」
時雨は泣いていた。震えながら泣いていた。
シオンの意識が前へ出ようとする。仮初の肉体。シオンはただの思念でしかなかった。それはダーク・ファントムと同じ。
今は時雨の意識が優っていた。この躰は彼の物なのだから。
感情の大きさが時雨の意識を増幅させていたのだ。
それに張り合おうとシオンも意識を強くするが、それでも時雨の意識を押し込めることができない。
セーフィエルが囁く。
「今よ、〈裁きの門〉を召喚する刻が来たわ」
すべてはセーフィエルの思惑どおり。
時雨は泣きながら叫ぶ。
「ノインの名において、〈裁きの門〉を召喚する!」
大地に描かれた魔法陣が燦然と輝く。
曇天の空から墜ちる稲妻たち。
空間の中から何かが墜ちてくるように現れる。
神々しい畏怖を放ちながら巨大な門が墜ちてくる。
――〈裁きの門〉光臨。
天に浮かぶ〈裁きの門〉を見てダーク・ファントムは笑った。
「やっとここまで来たね。さあセーフィエル、早く門を開くんだ!」
まだ門は開いていないというのに、その奥からは強烈な威圧感が漏れている。
呻き声、叫び声、風に乗って苦悶の声が聞こえるような気がする。
〈裁きの門〉を召喚できる者は。ワルキューレに名を連ねる者。
〈裁きの門〉を開くことができるの者は、セーフィエルの血を引く者のみ。
「妾の血において開門を命じる!」
悲鳴のような音を上げながら、重厚な左右に扉が開かれる。
死者たちの臭いが鼻を突く。
恐怖が風に乗って荒れ狂う。
暗黒。
開かれた門の先には漆黒の闇が広がっていた。
その中で蠢く何か。
何かが〈向う側〉の世界から手招きをしている。
久遠の監獄。
彼らが造り上げた煉獄の世界。
〈裁きの門〉の本体が開かれたことにより、帝都各地で天変地異や異変が起きていた。
アスファルトの下から這い出してくる甲冑を纏った大蛇のような生き物たち。大海龍の子らだ。
東京湾や相模湾からも鯨のような生物が陸に上がってきた。それはまるで河馬にも似ている。
虎や獅子よりも巨大な白銀の獣が、群れを成してどこからともなく現れた。
すでに都民たちには緊急警告が出されていたが、もう手に負える状況ではなかった。
帝都警察や機動警察が街中で戦闘を繰り広げ、ワルキューレたちが天を舞う。
ワルキューレたちはすでに帝都を捨てた。
二手に分かれ夢殿の護衛と死都に向かったのだ。
帝都を支配する者たちにとって、人間の生活が脅かされることなど取るに足らないことだった。
彼らは今までいくつもの文明都市を滅ぼしてきたことか。
幾度でも繰り返す。
どちらが勝でも負けるでもない双子の争い。
表裏一体の存在に決着などつくものか。
永遠の闘争。
それこそがリンボウに堕とされた彼らの定め。
帝都が未曾有の破滅への道を歩む中、セーフィエルたちはすでに〈裁きの門〉の中へと突入
していた。ハルナは再び別の場所へと転送され、それを人質に時雨も同行させられた。
そこはまさに地獄と呼ぶにふさわしい光景。
赤く燃える天に渦巻く暗い雲。
荒れ果てた赤い大地。
強い酸が地面から噴き出し、化学反応を起こした岩肌は自然のものとは思えない鮮やかな青
や黄色に染まっていた。
大量の蟲たちや、底なしの裂け目から伸びる触手たち、ここには数多くの肉を喰らう者どもが蠢いている。だが、その1つとて姿を現さなかった。
そこにいるのが誰の影だか知っているからだ。
硫酸の海を越え、溶岩が噴き出す群山を遠くに眺めながら、セーフィエルたちは新たな門の
前に来ていた。
この世界の最深部へと続く〈タルタロスの門〉。
〈裁きの門〉を召喚できるのはワルキューレに名を連ねる者。
〈裁きの門〉を開けることができるのはセーフィエルの血を引く者。
ならば〈タルタロスの門〉を開くのは誰か?
ダーク・ファントムは何十メートルにもなる巨大な門を見上げた。
「残る難関は2つだ。どうするんだいセーフィエル?」
「難関は3つよ」
「2つだろ? この門と〈邪柩〉しかないけど?」
セーフィエルの目つきが変わった。
「あのときのことをお忘れになって? なぜシオンは犠牲になったの? あの子は人柱になって呪縛を強固なものとしたのよ」
「じゃあその3つの問題はどうするのさ? 〈タルタロスの門〉は誰にも開けないように設計してあるハズだけど?」
「誰にもというのは、あくまでソエルの中にはいないという意味よ」
「ラエルとは言わないんだね」
「この世界に堕とされた者たちだけではなく、今ものうのうと遙かな世界で暮らしている彼らも開くことはできないわ。この門はリンボウのゲートを真似て創ってあるのだもの」
「じゃあ誰が開けるのさ?」
「もしも〈天帝〉と言ったら?」
作品名:旧説帝都エデン 作家名:秋月あきら(秋月瑛)