旧説帝都エデン
獣と化した学生が紅葉に飛び掛る。それよりも紅葉の方が早い。
白衣の内から外に出された手には蓋の閉まった試験管が握られていた。
紅葉が試験管の蓋を親指で弾き開けると、中から煙が立ち込めて、その煙は生き物ように学生に襲い掛かった。
煙であるはずの物質が学生の四肢を掴み、動きを完全に封じた。
瞬時に床の上でもがく学生の顎を掴んだ紅葉は、白衣の内から新たな試験を取り出し、その中に入っていた液体を学生の口の中に無理やり流し込んだ。すると、学生は気を失い、身動きを止めた。
「それで。用件は何だね?」
立ち上がった紅葉は白衣を乱れた直しながらそう聞いた。セーフィエルは嬉しそうに微笑った。
「さすがね、その力を貸して欲しいのよ」
「その力とは何だ?」
「あなたが生み出した魔導具のことよ」
「なるほどな」
魔導は素質を持った者にしか使えない。紅葉には魔導の素質はなかった。しかし、魔導具は魔導の素質がなくとも使用することができる物が数多くある。そして、魔導具は素質がなくともつくることができた。
魔導師がつくった魔導具の方が、素質のない者がつくった魔導具よりも優れている。しかし、紅葉の生み出した魔導具は違ったのだ。その実力は帝都大学にいる魔導師に疎まれるほどだった。
セーフィエルの掌の上に蒼白い輝きを放つバレーボールほどの大きさの玉が出された。
「これは人工満月なの、でも不完全」
「それで私に何をしろと?」
「もう察しはついていると思うけれど、この人工満月を完全にしてもらいたいの」
「それはおもしそうな研究だな。しかし、私にはあまりメリットがあるとは思えない」
「もちろん報酬はお支払いするわ」
異空間からセーフィエルは一冊の分厚い本を取り出して紅葉に手渡した。手渡された本は魔導書であり、その本のページに目を通した紅葉の目つきが変わった。
「これはおもしろい。三日ほどくれれば人工満月を完全なものしてみせよう」
「それは心強いお言葉ね。では、これがわたくしのつくった人工満月に関しての記述よ」
セーフィエルは紅葉に数枚のメモを手渡した。そこには人工満月の作り方が事細かに書き記してあった。
「これならば明日にはできるだろう。明日に私の元に来たまえ」
「あら、そんなに早くできてしまうの。魔導師の面目が丸つぶれね。それから、〈シザーハンズ〉を探しているのだけれど、どこにいるか知らないかしら?」
「〈シザーハンズ〉だと?」
〈シザーハンズ〉とは魔導具の名前であり、その魔導力の強大さからある程度の意思を持っている。その〈シザーハンズ〉は帝都で人々に取り憑き数多くの殺人事件を起こした。一時期姿を消した〈シザーハン〉だったが、この頃また現れたというニュースは紅葉の耳にも届いていた。
「そう〈シザーハンズ〉よ。殺人者シザーハンズ――しかし、その正体は魔導具である〈シザーハンズ〉。見つけたら捕まえて保管してもらえると嬉しいわ。では、また明日、お会いしましょう」
そう言って微笑んだセーフィエルは闇に溶けて消えた。
紅葉は階段を登り部屋を出た。すると、そこには数人の学生たちが紅葉のことを待っていた。
「下にいる学生を医務室に連れて行きたまえ。もう取り憑いたものは消滅した」
紅葉はそれだけを言って自室に足を運んだ。
自室に戻る紅葉の足取りは速い。魔導書を持つ手には少し力が入っている。
部屋に戻ってきた紅葉はすぐさまデスクに座り、魔導書の表紙を開いた。
紅葉が微笑みを浮かべた。
セーフィエルから譲り受けた魔導書は帝都地下で発見された遺跡に関するものだった。
紅葉が帝都地下遺跡の調査を任されるようになってから一ヶ月以上の時が経った。つい先日に起こった事件にも遺跡が関係していた。そして、その事件には帝都政府が絡んでおり、遺跡の調査を命じたのも帝都政府だった。
帝都地下で発見された遺跡は殺葵と呼ばれる存在を封じるための装置であった。それを守っていたのが〈名も無き守護者〉という〈大狼〉と〈大鷹〉。しかし、〈大狼〉と〈大鷹〉は再び殺葵を封じることはできなかった。殺葵を再び封じたのは別の存在であった。
再び殺葵が封じられた時、紅葉はその現場に居合わせた。そして、殺葵を異空間へと引きずり込んだ存在を見てしまった。そう、あれは確かに紅葉のよく知る人物であった。だが、なぜ?
紅葉は苦笑を浮かべた。
「誰もが隠し事をしているということだな……」
自分の周りにいる者たちが、ある事件で繋がっていることに紅葉は気がついていた。だが、その話について話し合ったことはない。そのため、本当に自分の周りにいる者があの事件の関係者なのかはわからない。
出逢いは偶然ではない。ひとつの事件で繋がっていたからこそ、出逢ってしまった。
紅葉が目を通している魔導書には遺跡に関しての記述とともに、帝都エデンを治める女帝に関する記述もあった。
魔導書にはこう記載されている。殺葵を帝都地下に封じるように命じたのは女帝であると――。
人間の寿命では到底成しえない長い統治。年に一度、公の場で姿を見せる女帝の姿は若く、20代後半にしか見えない。不老不死か何かなのかもしれないが、女帝の素性は一般には知られてない。ヒトではないという噂もあるが、その真意を確かめる術はなかった。
魔導書を閉じた紅葉は床に放置してあった割れたカップとコーヒーに目をやった。
黒い液体の表面上の浸食は止まっている。しかし、床の中への浸食はまだ続いているだろう。
紅葉はまだ掃除をする気がなかった。
「さて……」
立ち上がった紅葉は人工満月をつくるべく、魔導研究室へ足を運んだ。
紅葉のいなくなった部屋の窓から見える景色。外では雨がまだ降り続けている。だが、雨は先ほどよりも弱まり、もうすぐ止むことだろう。雨はいつか晴れるものだ。
そう、いつかは全て終わる……。
幕間 完
作品名:旧説帝都エデン 作家名:秋月あきら(秋月瑛)