旧説帝都エデン
白衣をきびしながら紅葉は部屋を足早に後にした。
「はぁ、まだ朝食摂ってないのに……」
そう言いながら、こたつから這い出てきた時雨は身体全身をポキポキと鳴らし、ハンガーにかけてあった黒いロングコートを羽織った。
外に出た時雨の眼前には白銀の世界が広がり、帝都は白い雪に飲み込まれていた。
時雨自身にも雪は容赦なく降り積もりの体温を奪っていく。時雨は背中を曲げ自分の両手を口元にやり自分の温かい息を吹き付ける。
「はぁ、寒いねやっぱり」
完全防備な厚着をした今にも凍え死にそうな時雨とは対照的に紅葉は薄い白衣を一枚羽織っているだけだったが、その表情には寒さという文字は刻まれていない。
「寒いのなら、もっと厚着をしてくればよかったものを」
「これでもすごく着込んで来たつもりだよ、なんだよこの寒さ異常としか言いようがないよ」
「今の気温はマイナス26度だ」
帝都の冬の平均気温は6℃前後、マイナス26℃というのは冷凍庫並の寒さであり、この街での最低気温を記録したと、天気予報でも伝えている。
「ボクは寒いのが苦手なんだけどなぁ」
「私のペットを早急に見つけ出さんと、もっと気温が下がることになるぞ」
「はっ!? 今何て言った、気温が下がる? どういうことだよ」
紅葉の言葉を聞き驚いた時雨は思わず彼の言葉を聞き返してしまった。
「ペットが逃げ出してから、一時間に5℃のペースで気温が下がっている、このまま行くと今日中に帝都の都市機能は全てストップし、植物枯れ、帝都に住むモノ達もこの街からでなければ皆死滅していくだろ、しかし、一般人がそのことに気づくころには交通手段は全て使えなくなっており、凍え死ぬのを待つのみとなる、帝都は氷の廃墟と化す」
紅葉の言葉を聞いた時雨は口をあんぐり開け呆然と立ち尽くしてしまった。
帝都が氷の街と化す、そのようなことが本当に有り得るのだろうか、時雨には到底信じることのできない話ではあったが紅葉は嘘を付くような人物ではない。もし、紅葉の言うことが本当だとしたら、帝都が氷の廃墟と化すとはなんと恐ろしいことなのだろうか。
なにかを思ったかのか寒いのか、時雨は首をぶるぶると振った。
「そのこと、この街のお偉いさんたちは知ってるの?」
「知っている訳がなかろう」
「だったら早く皆に伝えないと」
「そのようなことをしても街中がパニックに陥るだけだ」
時雨は紅葉の言葉に納得して小さくうなずいた。しかし、はっと思いついたように話を切り出した。
「ちょっと待てよ……って何でそんな危険なモノを生命科学研究所で扱ってるんだよ、こういう事態になったときのこと考えてなかったの? そもそも、気温が下がるってなんだよ、どうして気温が下がるんだよ」
「逃げ出したサンプルは私がとある国に頼まれて作り出した妖物で、大気中の空気を大量に身体全体から取り込み、身体の中で冷却し放出する」
「なんでそんなもん作ったの?」
「本来は温暖化を緩和するために作ったのだがまさか逃げ出すとは思っていなかった」
「逃げ出すと思わなかったじゃ済まないだろ」
「全く、君の言うとおりだ」
紅葉の言い方はまるで見ず知らずの他人の身に起きた不幸な出来事のように時雨の耳には聞こえた
「紅葉さぁ、責任とか感じてないでしょ?」
時雨は少し呆れた表情を浮かべていた。
「責任? なぜ私がそのようなことを感じる必要がある?」
やはり、紅葉は責任など微塵も感じてないようだった。
「だってさぁ〜」
「私は妖物の開発を頼まれただけで、その管理については私の関知するところではない」
きっぱりと言い放った紅葉を一瞥すると時雨は下を向いて深くため息をついた。そして、ちょっと上目使いで、
「はぁ……じゃあなんでそのサンプルを捕まえる気になったの?」
「私は寒いのは嫌いだ」
「それだけ……?」
「そうだ」
こいつ?どついたろか?と時雨は一瞬本気で思ったがその感情は心の奥底に封じ込めておいた。後がかなり恐いからである。
紅葉が白衣をきびした。
「私は研究があるので帰らせてもらうぞ」
「はっ、今なんて言った?」
時雨は思わず聞き返した。
「研究があるので帰らせてもらうと言ったのだがそれがどうかしたか?」
「どうかしたかじゃないよ、なんで帰るんだよ」
「研究があるからだ」
そう言って紅葉は白い雪の中に溶けていった。
時雨は紅葉に向けて雪球を作って投げつけてやったが雪で視界が遮られて、雪球が紅葉に当たったかどうかは定かではなかった。
その後時雨はものすごく後悔をした。……もし、雪球が紅葉に当たっていたらただではすまないなと思ったからだ。
時雨は仕事柄、帝都に仕事の協力をしてくれる知り合いが数多く存在していた。
それらの人々の中には情報屋と呼ばれる職種の者たちもおり、一流の情報屋ともなれば金さえ払えば国家機密から小さな商店の帳簿までどんな情報でも教えてくれる。
時雨はたびたび情報屋を利用する。そして、今回もそのお世話になることにしたのだが――。
青白い顔をした時雨は携帯電話を片手に猛吹雪の中を歩いていた。
「生命科学研究所から逃げ出した、実験サンプルのことなんだけど」
『ZAZAZA……な…に? ……き……ない』
大雪のため電波の具合がよくないらしくよく聞き取ることができない。
「実験サンプルが今どこにいるか分かる?」
『…サン…ル……ZAZAZA』
時雨は携帯電話が使い物にならないことを悟り後でかけなおすことにした。
「……後でかけなおす、じゃあね」
『えっ……』
ガチャ――時雨は電話を切ると辺りを見回した。
「公衆電話ってないのかなぁ」
公衆電話なんてなかった、というより辺りは猛吹雪のため視界ゼロであった。公衆電話が近くにあったとしても今は見つけることはできないだろう。
時雨は公衆電話を置いてそうなお店を捜して電話をかけ直そうと思ったがこんな大雪の日に営業している気合の入った店は一軒も存在しなかった。
「はぁ、まいったなぁ」
時雨が途方にくれながら歩いていると前方に駅が見えてきた。駅になら公衆電話があると確信した時雨はまさにこれは天の助けに違いないと思い込み駅に向かって全力で走って行ったのだが……。
「……閉まってる……なんでシャッターが閉まってんの!」
そう、帝都に吹き荒れる猛吹雪のため電車は全線不通となっており、駅の入り口のシャッターは閉められていたのだった。
「……なんだよ、もう!」
ゴン! 時雨は腹いせにシャッターに思いっきり蹴りをくらわしたのだが。ざざーっ!! シャッターを蹴った振動で雪が時雨目掛けて大量に落ちてきた。
「わぁっ!」
雪をかわそうとしたが足が滑ってその場に転倒してしまい、雪の直撃を受け雪の中に埋もれてしまった。
「ぷはーっ!」
雪山の中から意気よいよく人の頭が飛び出してきた、それはまさしく時雨の頭だった。
「死ぬかと思ったー」
死の淵から生還した男の顔は蒼白だった。時雨は雪山の中から抜け出すとぶつぶつと文句ながら全身をはたいて雪を落とした。
作品名:旧説帝都エデン 作家名:秋月あきら(秋月瑛)