僕か君は、がんで死ぬ。
Peee.Peee.Peee.Peee.Peee・・・
突然、機器のアラームが大きな音で鳴った。医師の手が少し緩んだ。また、看護師が慌てて背中を擦りだした。僕の腕の血管に取り付けられていた器具のセンサーが、血中酸素濃度の低下を感知したそうだ。僕にはそんな自覚など無かったが。
現場は急に慌しくなって、医師は背中を擦る看護師に何やら指示した。僕はそれを聞き取れなかったが、皆、明らかに慌てている。
この時、廊下にいた妻は、検査室から出てきた看護師の、普通ではない表情を見て、心配になったようだ。そして、検査室に戻ってきた看護師に、
「何かあったんですか?」
と聞いたが、
「大丈夫です」
と返答されたらしい。
実際、大丈夫だったのか、非常事態だったのか僕には分からない。しかし、その看護師が手に持ってきたのは、新しいモルヒネ3本だった。僕は一目でそれが分かった。アラームは一旦、鳴り止んでいた。
「モルヒネを追加します」
そう医師が言うと、僕の返事を待たずに、それを開封し始めた。そして、また肩の激痛に耐えるしかなかった。そしてまたカメラを押し込もうと奮闘が続き、6本目のモルヒネを打ったところで、ようやくカメラのコードがするすると送られるようになった。肺の中に到達したようだ。その瞬間、嘘の様に痛みは消えて、検査室内は静かになった。
「やっと入りました。もう大丈夫ですか? 肺の中は意外にきれいですよ。タバコ吸われてないですから。でもやっぱり、かなり赤くなっています。出来物は底の方なので、もう少し入れて、行・き・ま・す・・・」
医師は慎重にカメラを扱っている。僕は肺のどこにカメラがあるのか、分からなかった。
「あー。これですね。出来物見つけました。少し細胞を切除してみます」
医師は姿勢を変えて、何か操作していたが、僕にはやはり肺の中でどのようなことが行われているのか、まったく感じられなかった。
「はい。じゃ、カメラ抜きます」
今度はカメラをするすると引き抜き始めた。入れた時と同じように喉の奥に痛みを感じたが、それは瞬間的なもので、あっという間に、口からカメラが取り出された。看護師が採取した細胞を試験管のような容器に入れるのが見えた。
僕は安堵から、大きく息をハァハァと整えたが、ランニングの後のような息苦しさは一切無かった。
「見てください」
医師はモニターを僕に向けた。
「これが出来物の写真です」
真っ赤に炎症を起こした肺の内壁に貼り付く、太い芋虫のような塊が映っていた。表面の色は白かったが、内部は少し黄色く見えた。
「血が出てるところを切り取りました。これを検査して結果を待ちましょう」
僕は起き上がろうとしたが、医師はそれを止めて、
「そのまま横になっていてください。今日は少し休んで帰宅してもらうはずでしたが、モルヒネを限度以上に打ったので、泊まって行ってください」
「麻酔が効きにくい体質なんでしょうか?」
「いやー。私もこんな事は初めてです。モルヒネが効かないなんて、自白剤打たれても、嘘がつけるんじゃないですか?」
これには、看護師も皆笑った。
医師が退出した後、看護師がストレッチャーを検査室に持って来て、横になっていたベッドから、僕をそれに乗せ変えようとした。しかし、女性二人では僕を抱え上げられない。何とか頭だけストレッチャーに乗せて、下半身を抱えようとするが、まったく以って無理だった。
「ちょっと、応援を呼びに行って」
看護師の一人が言ったが、
「待ってください。僕一人で移れますよ」
僕は誰の手も借りず起き上がり、床に立ってストレッチャーに腰掛け、そしてそれの上に仰向けで横になった。
「ええー!」
看護師は二人とも驚いていた。
検査室を出ると妻が心配そうに駆け寄り、
「どうだった?」
「やっと終わった。今日は泊まって行けって」
もとの処置室に戻されて、今度は妻もその部屋に入って待った。ストレッチャーの上で、あぐらをかいて話をしていると、先ほどの医師が、
「本当に大丈夫みたいですね」
「はい、全然なんとも無いです」
「じゃ、奥さんも来られてるようですし、自分で運転して帰るのでなければ、3時間ほどここで休んでから帰宅されますか?」
「はい、そうしたいです」
それからまた、1週間。体調はかなりよくなった。また走れそうだ。2週間前に撮ったレントゲンの状態から、良くなっている気がしていた。その時の体調に付いては、また楽観的に考えられるような、心の余裕さえ出来ていた。しかし、がんであるかもしれないという不安は、払拭出来ずにいた。
細胞検査の結果を聞きに病院に行くと、待合室でいつもの看護師と顔を合わせた。彼女は僕に近寄って来て、
「大丈夫でしたよ」
と小声で告げた。
「え? 本当に?」
「詳しくは先生から聞いてくださいね」
と言うと、足早に去って行った。白衣の天使とは、よく言ったものだ。
それからは、脳みその中で力が抜けたような感覚になって、診察室で医師とどのような会話をしたのか、よく覚えていない。
「ホノルルマラソン頑張ってください」
と言われたのだけ、はっきりと記憶にある。
12月の中頃、僕は妻とオアフ島の道路を走っていた。テンションも高く、ついこの前まで死の恐怖に直面していたことなど、まったく忘れていた。各国から集まった約3万人ものランナーに混じり、ビーチ沿いの長い直線道路を走っていると、ピンクリボンを着けた集団に気が付いた。それは乳がんの患者で作るチームであるとすぐに分かった。僕は彼女たちが、どんな気持ちなのか知っている。1ヶ月前の僕と同じなのだ。それは数十人のグループで、彼女たちだけが今、死の恐怖と戦っているわけだが、ここにいる全ランナーの半分は、そのうち彼女たちと同じ境遇になるのだ。
その集団と一緒に走り、彼女たち全員がゴール出来ることを心から祈った。
今では死の恐怖を思い出すことは無い。しかし、新たな保険には加入している。がんだった場合にしっかり治療費が出る内容の保険にだ。他人にもその必要性を訴えることもある。
また、タバコを吸っている人がいると、
「やめたほうがいいよ」
と、必ず一言告げるが、誰もやめようとはしない。肺がんの怖さを、誰も知ろうとはしないようだ。だから僕は最後にこう付け加えたい。
「僕か君のどちらかは、がんで死ぬんだよ」
終
作品名:僕か君は、がんで死ぬ。 作家名:亨利(ヘンリー)