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シャボン玉

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「シャボン玉」
 
 土筆がいくつも地面から生え出ていた。まだ、羽化したばかりの蝉のような、柔い表面を持つ土筆だが、まっすぐに伸びるその様子は、幼子のそれとは重ならない。何十年とそこに生えているかのような錯覚に陥る。
 そういう土筆に気づくことなく、遊ぶ子供は、黄色い長靴と黄色い雨合羽を着ている。土とアスファルトの境目にできた水たまりの上でバシャバシャとしている。降りやんでいない小雨が雨合羽に付着して、小さな水滴を精製しては、地面に落ちていく。風と重力がその行方を決め、土か、アスファルトに落ちる。濡れきった両者をさらに湿らせていく。

 躍動感あふれる子供の無邪気な遊びと、幼いながらも生命の使命感を纏っているような土筆。この二つを私はガラ越しに見ていた。改札を抜け、ホームに向かうまでの短い通路からは雨景色の外が半透明に見えるのだ。雨の細かい霧がそうさせているのか、ガラスの加工がそういうものなのかは考えないことにした。

 ホームは地下にあるため、私は下りエスカレーターに乗った。少し進むと地下特有のあの風が全身を襲った。吹き込んでくる向かい風は呼吸を困難にさせる。それを回避するために体を少しばかり斜めにそらし、口元を手で覆った。
 半分ほどエスカレーターが進むと、慣れてきたのか、呼吸が楽になった。同時にあの欲求を強く抱いた。
 シャボン玉を飛ばしたい。
 あれは、三日ほど前だったと思う。雨交じりの、嵐のような夜中、最終電車で帰り着いた私は、家までの道のりを歩いていた。その日はかなりの強風雨で、傘は一瞬で壊れ、空き缶が舞い、街灯は雨にやられたのか、いくつか消灯していた。そしてそういう薄気味悪い中を、雨に濡れながら家路を辿っていた。

 帰り着くと濡れた全身を余すことなくタオルで拭いた。このタオルが何とも陰湿なもので、湿り気というおうか、いや、違う。もっとねっとりとした気分を害する何かが表面に付着しているような、そういうタオルだった。
 そのタオルで全身を吹きながら、晴れ渡る、晴天の中で干されるように水分を蒸発させたい、同時にこの陰湿な気分というものを全て取っ払ってみたいものだな!と諧謔心を少し織り交ぜながら思った。
 体を拭くとそのタオルをゴミ箱に放り投げ、さらにその上から落ちていたミニトマトを握りつぶしながら捨てた。もう一つ落ちていたミニトマトを拾うと、黴はいないか、腐ってはいないかとぐるぐると回し見た後、水道でさっと洗って、そのまま口に入れた。もちろん、蔕はゴミ箱に捨てた。
 そのミニトマトの甘酸っぱい味が口いっぱいに広がると、まるでそれを田舎のビニールハウスの中で食べているかのような感覚を抱き、そんなはずはないと周りを見渡した。丸められた原稿用紙と皺くちゃのワイシャツ、埃のかかった古本、針が同じところでカチカチと微動する目覚まし時計、三枚ある葉が二枚枯れた観葉植物。どれもいつもと変わらない部屋のものだった。
 それでも口の中だけは鮮烈なイメージを運んできた。幼いころにかけ走った畦道や、蛙の大群の演奏、何かに齧られた西瓜。純粋無垢で、雑踏という言葉が存在しないほどのイメージが口の中だけで繰り広げられ、ある一つの風景を懐かしく思い出した。
 ぷくうと膨らませたシャボン玉がむくむくと形を変えながら空に向かっていく。それを割ろうと何度も何度もジャンプし、両手で割っていく子供。それが私だった。
 
 この時、私はもう一度、シャボン玉をしたいと思った。しかも不思議なことに今度は割る方ではなく、飛ばす方をしたいと思ったのだ。

 

 そういうわけで、唐突な思い付きを実行しようと次の日を楽しみにしていたのだが、その日は変わらず強風雨で、シャボン玉など飛ばす世界ではなかった。仕方なく、この欲求を解消させることなく、堕落した休日を過ごした。
 しかし、この季節。そう晴天に遭遇できるものでもなく、その次の日も雨天だった。強風雨と呼べるほどのものではなかったが、傘は必須だろう。洗濯物が乾く気配はなく、原稿用紙に黴が生えていた。
 そして三日目。土筆と子供を横目に通勤ラッシュに揺られようとしていたのだ。雨景色の中を走り去る電車は部屋と同様に陰湿な空気に包まれていた。
 
 
 特急電車が私の前を当然のように過ぎていった。速度を落とすことなく通過した特急には雨水が付着したままだったのか、私を含めたホーム上にいた人を濡らしていった。きめ細かい雨粒だったからか、全く気にしない人も数人いたが、ほとんどの人が濡れた服を気にしていた。
 三日目も味気なく過ぎていった。ここまできたら晴天の芝生の上でこそ、この欲求を解消したいと思った。溜め込んだ欲求を最高な土壌、条件で発散したほうが、より歯切れが良いだろう。だから、また明日。そう思って急行電車に乗り込んで家まで味気なく過ごした。

 
 四日目は見事に晴れた!
 予報では雨だったはずだが、予報はなんと外れてくれた。通行人は皆、念のためか傘を持っている。最近の宿雨によって濡れたままの傘は冷たいだろう。そう簡単に乾くとは到底思えない。
 その日の空は雲一つない晴天、というわけではなく、棚田のような段々の雲が空一面に蔓延っていた。それでも空の色は暗いものではなく、むしろ晴天のそれに近かった。あの棚田は実はスカスカで、日光はその隙間をうまいこと通ってきているのだろう。
 できることならレンズに日光の模様がはっきりと映るような晴天の方が良かった。シャボン玉特有のあの色、模様に太陽光が差し込むと一層豊かな色彩を見せてくれるからだ。
 しかし、この季節にここまで清々しい天候は珍しい。仕事など何かの理由をつけて休みにした。貴重な今日という日を易々と明け渡すことはできるわけがない。
 
 私は最初にシャボン液を探した。ちょうどこの先の公園の近くに古い駄菓子屋が会ったはずだと思い、そこまで向かうとやはり、あった。埃をかぶった飴細工の横に三つ並べれたシャボン液の一つを手に取り、奥にいた老婆にいくらかと聞いた。老婆は不思議そうな目をしながら三十円と呟いた。私は百円玉を一つ渡し、そのまま店を後にした。
 
 公園に入るとすぐにシャボン玉を飛ばそうとシャボン液を開けた。プラスチックの筒を中に入れ、記憶の通りにぷくうと膨らませてみた。
 面白いことに、うまく膨らまない。昔は歩くように容易に膨らませていたが、時間が経つとここまでできなくなるものなのだろうか。もう一度ぷくうとすると今度はうまくいった。ぷかぷかと浮かんだシャボン玉が筒から離れ、空中に浮かんだ。
 棚田の空から差し込む日光はなかったが、シャボン玉はあの頃の記憶通りの色をしていた。自然界にこんな色が存在しているのだろうか。これは人工的にしか創り得ないものではないかと思えた。
 数個浮遊させていると、最初に飛ばしたシャボン玉がぱっと割れた。ふわふわと風に乗って飛んでいたため、目の前で破裂したわけではないが、目くらましにあったかのようにぴくっと体が反応した。
 同時に私は表現しようのない恐怖を覚えた。シャボン玉がぱっと割れた瞬間、つまりシャボン玉がこの世から消えたその瞬間に、私はこれまで綺麗だとか、哀愁だとか、そういう終焉の美を重ね見ていたのだ。
作品名:シャボン玉 作家名:晴(ハル)