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狭間世界

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 二重人格であるということは間違いのない事実のように思える。しかし、二重人格だからと言って、萎縮と他人事に思う気持ちが同居している理由にはならないように思えた。その理由は、同じ二重人格でも、片方が表に出ている時は片方が裏に回っているというような二重人格ではなかった。いつも自分の中で表に出ている相容れない性格同士が、自分を矛盾する考えに導いていることで悩んでいる自分を感じていた。それは無意識ではあったが、他人事に思うことへのプロローグでもあったのだ。
 ただ、祐樹は自分のことを二重人格だと思うようになり、そして、まわりもそんな目で見ていることが分かってきたが、二つの性格を自分の中で正確に把握することができていない。
 一つの性格が分かっていないのだから、もう一つの性格も分かるはずがない。それぞれに半対照的なものであるかのように思っていたが、どうやらそうでもないようだった。
 両方が表に出ているという考えも、自分の性格を一つとして理解できないからだった。――その思いが自分を他人事のように見せるのかも知れない――
 と、祐樹は考えた。
 考えることが嫌いではない祐樹は、絶えず自分のことを見つめながら性格を把握しようと努めていた。それなのに、まったく分からないのは、他人事のように感じるからだということよりも、むしろ萎縮してしまう性格になるのではないかと思うようになっていた。
 その萎縮というのも、まわりに対しての萎縮ではなかった。
――萎縮の相手が自分だと考えると、辻褄が合う――
 要するに自分に対して萎縮しているから、他人事のように思えてしまうのだ。自分を直視できないというのは、誰にでもあることなのだろうが、自分に対して萎縮している自分を感じているくせに、自分を怖いとは思っていない。他人事のように思うからそうなのだろうが、逆に自分を他人事のように思うということは、自分が自分を殻の中に閉じ込めてしまっているということを示しているのだと感じるからだった。
 中学生になると、まわりを見る目が本当に他人事になっていた。
 楽しそうにしている連中の、何が楽しいのかと思っていると、
――俺はあいつらとは違うんだ――
 という意識が強くなっていくのを感じた。
 つるんでいる連中を見るだけで嫌な気分にさせられたのは、その頃の自分が本当の孤独を知らないからだったに違いない。
 まわりの連中と自分は違うと感じるようになると、寂しさなんかどこへやら、まわりに対して他人事と感じている自分を誇らしげに感じるほどだった。まわりから、
「寂しいやつだ」
 と思われるのも嫌ではなく、むしろありがたかった。
 自分が寂しくもないのに、哀れみを込めたかのような目で見ている連中を欺いている感覚が快感だったのだ。
 とにかく、自分はまわりの人間と同じでは嫌で、少しでも違うところを見つけて、それを自分の悦びとしていたのだ。人と接することが嫌で、ひどい時には、同じ空気を吸っていると思うだけでも嫌なことがあった。それが欝状態のようなものだったのだということに気付いたのは、大学三年生になって躁鬱症になってからだった。
 躁鬱症は最初は深刻に考えていたが、誰にでも大なり小なりあることだと聞かされて、うまく付き合っていくことを考えるようになった。その頃には、さすがに人と関わることを嫌だと思うことはなくなり、億劫なことはあっても、人並みに人付き合いができるようになっていた。
 一番人付き合いが苦手だったのは、中学に入った頃からだっただろうか。ただそれも中学に入ってすぐのことではなかった。中学に入りたての頃は、むしろ友達を作りたいと思っていた。前向きな考え方を持っていた少年だったのだ。
 それがまわりと関わることを極端に嫌になったのは、自分の中にある萎縮が顔を出し、萎縮を意識しながらでも、自分が苦しまずにすむにはどうすればいいかを考えると、そこには自分を他人事のように思うことだった。
 その思いは考えていたよりもずっと楽で、自分を正当化することのできるものだとして、自分の性格の中枢を担っているかのように感じられた。
 小学生の頃に、友達がいなかったわけではなく、よく友達の家に遊びに行くこともあった。
 友達になるきっかけは、いつも自分からではなく相手から声を掛けてこられる。自分から声を掛けることができる勇気があれば、もっとたくさんの友達ができていて、中学時代の自分も随分と違った生活をしていたに違いないと感じていた。
 小学生の頃も、中学に入ってからも、友達はいつも一人だった。特に小学生の頃は、声を掛ける勇気がないだけではなく、声を掛けてきてくれた相手に対して、
――彼は自分よりも上なんだ――
 と感じることで、彼を通して他の人を見ると、
――彼だけではなく、まわりの皆もすべて俺よりも上なんだ――
 と感じるようになっていた。
 小学生の頃の祐樹は、絶えず自分から見て、相手が上か下かを判断する子供だった。
 友達がいないことで、どうしても見る相手は親であり、先生であった。すべてが目上であり、いつも上ばかりを見ていると、対等な位置で見ることができない子供になっていた。クラスメイトのすべてが自分よりも上だとは思いたくないという気持ちもあったからなのか、友達が複数だと怖い気がしていたのだ。
「友達を紹介してやるよ」
 と、友達になった子から言われると、その瞬間萎縮してしまい、せっかく友達になった相手が遠くに行ってしまったような気がしてくるのだった。それが嫌で嫌で仕方がなく、わけもなく自分を責めたりしたものだった。
 そんな祐樹だったが、いつも引っ込み思案だったというわけではない。時々、自分が目立ちたくて仕方がないことがあった。自分の存在を示すという意味での目立ちたがりだったのかどうか、今となってはハッキリとは言えないが、祐樹にとって目立とうという気持ちが表に出た時が本当の自分なんだと思うことの方が多かった。
 そのせいもあってか、普段から引っ込み思案に見られている人間が表に出ようとするとどうしても無理が出てしまう。そのことを意識しているはずもないのに、表に出た瞬間、
――しまった――
 と感じてしまい、我に返ってしまうことが多い。
 それを後悔という言葉で片付けていいものなのかどうか自分では分からなかったが、どうしようもない気持ちになるのは、まるで禁断症状のようであり、その時は自分が自分ではないような気がしていた。
 自分を他人事のように考えていることの多い自分なので、それも無理のないことなのかと思うがそうではない。禁断症状はあくまでも自分を自分だと思うことで起こるものだと今では思っている。
 中学時代のあの時、思わず口にしてしまった言葉が、
――目立ちたい――
 という気持ちから出たものだとは今では思えないが、ずっとそう思ってきたことが自分の中で、
――目立ちたがりな性格が見え隠れしている――
 と、ずっと思わせていたのだった。
 目立ちたいと思うことが決して悪いことではないと思う反面、
――自分に果たして合っているのだろうか?
 と思えるのだ。
 他の人であれば悪いことではないと思えることも、自分だったら悪いことに思えることも決して少なくはない。
作品名:狭間世界 作家名:森本晃次