短編集20(過去作品)
初雪
初雪
雪も降っていないのに底冷えするのはここが雪国だからだろうか?
私こと水谷良平がここ金沢に立ち寄るのは初めてである。特急電車から降りると、まるで鉄のように重く、そして冷たい空気を感じた。東京でも朝の放射冷却の時は、重たくて冷たい空気を感じることがあるが、それにも増して冷え切っている。こんな寒さは初めてだ。
――コートだけでは寒かったみたいだな――
マフラーを持ってこなかったことを後悔した。そういえば会社の連中が言ってたっけ。
「水谷さん、金沢は本当に冷たいですよ。防寒の用意はしっかりしてから行ってくださいね」
と忠告してくれた後輩の言うことを真面目に聞いておけばよかった。初めての土地に行くのに、人のアドバイスは重要だ。
後輩が「寒い」と言わずに「冷たい」と言っていたことを今さらながらに感じた。確かに「冷たい」という表現がピッタリだ。顔に当たる風が痛く感じるのは凍りつくような冷たさを感じるからで、決してただの寒さではない。これが雪国というものなのだろうか。
――こんなところで住むことになったら大変だな――
漠然と感じた。ずっと東京本社勤務で、支店の経験は若い時にしかない。それも暖かいところばかりで、本当の雪国の辛さというものを私は知らない。出張でこそいろいろ歩き回っているが、今日ほど冷たいと感じたことはなかった。なぜなのだろう?
曇天の空を見上げ、今にも雨か雪が落ちてきそうなのだが、これが寒い時独特の空なのだろう。東京でもこの時期にはよく感じるが、そんな時は必ず冷たいものだ。すごいスピードで駆け抜けていく厚みを感じる雲、感じている風よりも勢いがあることからも、冷たさが尋常でないことが分かる。
よく見るとほとんどの人がマフラーに帽子をかぶっている。駅に着いたのがまだ昼前、朝から気温がほとんど上がっていないのではないかと感じ、さすがよく分かっているのか用意のよさに感心させられた。
駅を出て、そのまま出張先に向かった。
会社は金沢駅すぐ近くにあり、徒歩でもいける距離である。いわゆる金沢市の中でも一等地ではないだろうか? ビル自体はそれほど新しくなく、歴史すら感じさせる佇まいになっている。このあたりはどのビルも同じことで、土地代だけで結構なものなのかも知れない。
「後藤商事」
と書かれた看板を見つけ、ビルの中に入る。事務所はビルの三階にあるようだ。目の前にあるエレベーターのボタンを押すと、三基あるうちのすべての扉が開いた。きっとほとんど来訪者もなく、すべて一階に下りているのだろう。一番左のエレベーターに乗ったのは無意識で、たぶん私以外の人でも三基すべてが開いていれば左に乗るのではないだろうか?
エレベーターが動き出したが、思ったより静かなエレベーターである。外観から見るより内装は結構新しいようだ。
三階で降りると一階の寂しげな雰囲気とは違い、喧騒としていた。さすがに事務所、人の往来も激しく、女性事務員が忙しく動き回っているかと思えば、男性社員は机のノートパソコンの前で真剣な眼差しをモニターに向けていた。皆並んで真面目な顔をしていると滑稽に見えるのは不謹慎だろう。一瞬感じただけで、後は真面目に見ていた。
「いらっしゃいませ」
一人の事務員が声を掛けてくれた。乾いたような高いトーンの声で、私にニコニコ微笑んでくれる。少し驚いている私とは裏腹に、誰もこちらを見ようともせず自分の仕事だけをしている。そちらにも同時に驚いた。
――何というところなんだ。これでも事務所か?
声に出そうなのを堪えていたが、思わず手で握りこぶしを作っていた。じれったいという心境になったのである。それだけに最初に声を掛けてくれた女性が新鮮に感じられ、精一杯の笑みを彼女に返してあげた。
名刺を渡し、
「小池社長は、いらっしゃいますでしょうか?」
「今、外出しております。水谷さんのことは窺っておりますので、こちらで少しお待ちください」
と言って応接室に通してくれた。
「どうもお待たせしました」
お茶も彼女が持ってきてくれ、名札を見ると「中山早苗」となっている。本当に気立てのいい娘で、それだけに他の社員が情けなく見える。偏見なのかも知れないが、職業柄それも仕方のないことだ。
私は東京に本社のある総合商社「山井商事」の総務課長をしている。全国に支店を持っており、海外にも進出している一流企業である。
実はこの度金沢を拠点に北陸一円を営業範囲としていた後藤商事を我社が買収することになった。経営的に困窮し、弁護士に相談していた後藤商事だったが、さすがに自力が不可能と見るや、水面下で我社に接触してきたのだ。北陸地区にそれほど強い地盤を気付いていなかった我社にとって、それはおいしい話でもあった。
どうしても北陸地区というと雪などによるコストやそれに伴う需要を考えると、進出を躊躇う幹部たちもいたのだが、そのために北陸地区は同業他社のシェアでほとんどがカバーされていた。しかも北陸地区といえば、カニを始めとして水産加工物の宝庫である。商社としてそれを放っておく手はないだろう。後藤商事の小池社長は、そこを強く推してきた。頭の固い幹部連中もさすがに、
「よし、やろう!」
と言った社長の一言には勝てなかったらしく、会議の席上、満場一致で北陸進出が決まったのだ。
「同業他社に負けるな」
というのがスローガンで、社長の本音はそこにあったのかも知れない。とにかくちょっとしたことでも負けるのが嫌いな社長である。そうでなければ社長など務まるものではないだろう。
それにしても弁護士の入れ知恵か、同業他社の話題を巧みに利用した小池社長というのは、海千山千の人物のようだ。
私は実際に小池社長に会うのは初めてである。本社の通路ですれ違ったことはあるが、話をしたこともなければ声を掛けたこともない。見るからに社長という雰囲気で、奥の深さというか、さすが海千山千、田舎者のお山の大将だと考えるのはあまりにも浅はかなことだろう。
経営が危ないとはいえ、一応社長である。創始者の後藤会長には子供がなく、後継ぎがいないことから白羽の矢が立ったのが、当時営業部長をしていた小池社長であった。取締役から社長を選ぶのなら分かるが、営業部長からいきなりの社長は、当時センセーショナルな話題を振りまいたようだ。しかし北陸中心の中小企業、それほど中央で話題になることはなかった。それでも北陸では大手、小池社長の名前は業界では結構有名であった。
社長就任当時、地元の新聞ではいろいろな噂が飛び交っていたようだ。
「小池社長は女を使って、当時の社長をうまく丸め込んだ」
「社長の弱みでも握っているんじゃないか?」
などという噂があり、新聞にはなるべく露骨にならないようにと記事になったらしいが、それでもかなり露骨な内容だったと、当時の新聞を読んだ人は話してくれた。
北陸に出張に行くということを、馴染みのスナックで話したことがあった。
その店は会社からは遠く、自分のマンションには近かった。それだけに安心もできるのだ。もちろん、会社の内情を話すことはない。ただ、
「今度金沢にある、後藤商事に出張で行くんだ」
作品名:短編集20(過去作品) 作家名:森本晃次