暁の獅子 黄昏の乙女
目当ての姫君と踊って謎の姫君の真意を測ろうとしていた事も忘れて満足したレオニードは、正体に気付かれない内に広間から逃げ出してしまった。
かといって見物席に戻る気にはなれなくて、月の明るい庭を漫ろ歩きしていた。
剣士としても優れているレオニードは、自然に気配を消して歩いていたので茂みや草叢に潜む虫達は鳴き続けている。
虫の音は短い命を謳歌し、僅か一季節で消える命を惜しんで恋を語るものなのだと以前に聞いた事がある。
恋や愛などというものが入り込む余地は、現在のレオニードの心にはない。
4年前、父王の崩御に拠って急遽王位を後継したレオニードには、息を吐く間もなく隣国の侵略を受けてそれを退ける為の戦に追われた。
戦が済めば、後始末だ国内の平定だと政務に追われ、恋を探すどころではなかったのだ。
漸く落ち着こうかという矢先に、この度の王妃選びの祭り騒ぎである。
実感が沸かない事も手伝って、レオニードは表面上は兎も角、内心では他人事のような感覚でいたのだ。
王宮に到着した当初からヴェールを外す事を拒み『ヴェールの姫』と呼ばれる様になったフルール伯爵令嬢に興味を覚えはしたが、あくまでも好奇心の範疇でしかなかった。
だからほんの僅かな衣擦れの音に気付いて覗いた所に、まさか当人がヴェールを上げて漫ろ歩きしていようとは思いもしなかった。
柔らかそうな銀の髪を結い上げた毛先が肩に流れ落ちて月の光を弾いて輝くさまは、処女神で美の女神である月の女神を思い起こさせた。
驚きに見開かれた瞳は暁の色を載せて知的な輝きを放っている。
その華奢な肢体を包むのは、白い地に裾の方が濃くなっている暁色の花をあしらったドレスで、オーバースカートの間から覗くアンダースカートは青の季節の宵を彩るライドラの花と同じ淡い紅色である。
レオニードは、女性を美しいと思ったのは、初めてかも知れない。
驚いて逃げられてしまわないように慎重にしようと思いながらも逸る気持ちには勝てず、素早く動いて『ヴェールの姫』を腕の中に捕らえていた。
「あ……」
自分の身に何が起こったのか理解出来ないように戸惑っているシルヴィーを、レオニードの腕が強く抱き締める。
反射的に、儚いばかりの抵抗を続けるシルヴィーの肢体を、レオニードは感情をぶつけるように抱き締めた。
「は、はな…っ!……離して下さいっ!」
自分を抱擁した腕の持ち主の正体など知る由もなく、見知らぬ男の腕を振り払おうと、シルヴィーは力の限り抗った。
「少しの間で良い。どうかこのままで……」
掠れた声に耳元で囁かれて、シルヴィーはびくっと震えて身を固くした。
抱き締める相手の真意などシルヴィーには理解らない。唯、無闇に抗わない方が良いような気がして、シルヴィーは男の腕の中で身を固くしてそれでも抵抗はやめた。
「……どうか、離して下さい。私は王妃候補の一人なのです。このようなところを誰かに見咎められたりしたら……」
候補の資格を失ってしまう。
聞こえるか聞こえないかの声で呟かれた言葉を、レオニードは苦笑と共に受け取り内心で呟いた。
そなたは即刻私の妃に決定するだろう。
レオニードの内心の呟きがシルヴィーに届く筈もなく、シルヴィーは泣きたくなった。
無礼講と称したパーティーの席上で騙し討ちのように候補者達を篩に掛けていたのは、名乗りを上げた候補の姫達が多過ぎた所為だろう。
それだけ厳しい篩を用意している選抜員に、何処の誰とも知れない男に抱き締められてしまった事が知られたら、シルヴィーは間違いなく候補の資格を失うだろう。
そんな事になったら折角画策した事の全てが無駄になってしまう。
「お放しなさい。無礼講なのはパーティーの席上でだけの事」
静かに告げられたシルヴィーの声が、今までとは違う響きを含んでレオニードに届いた。
それは、たかが田舎貴族の娘如きが持てるものではなかった。
極一部の、レオニードと同種の人種だけが身に着けるもの。
はっとして抱き締めていた腕を緩めたレオニードは、腕の中の華奢な肢体の主を見下ろした。
知的な輝きを載せた暁色の瞳が、凛とした光を放ちレオニードを見据えてくる。
瞳から溢れる誇り高さを叩き付けられて、レオニードは正気を取り戻したように体を離していった。
隙を狙って踵を返そうとしたシルヴィーの華奢な手首を咄嗟に握って、レオニードはそっと引き寄せた手首に唇を寄せる。
「!?」
いきなり現れて不埒な真似をした挙句、貴婦人に対する最高の礼を取ってみせる美貌の男に、シルヴィーは戸惑いを覚えるばかりだった。
男は恭しくシルヴィーの手首に唇を落とすと、青い瞳をひたとシルヴィーに向けてくる。
シルヴィーの戸惑う様子は幼くすらあって、レオニードの心を騒がせる。
自らに課した自制が脆く崩れ去るのを、レオニードは止める事が出来なかった。
シルヴィーは理解出来ない狂おしい光を浮かべた瞳が、瞼の裏に隠されるのを至近距離で見る事となった。
唇に感じたのは、湿った温かさと包み込まれる感触。
何が起こったのか理解らずに呆然としていたシルヴィーが気が付いて抗おうとした時には、既にレオニードの逞しい腕がシルヴィーの華奢な肢体を懐深く抱き締めていた。
逃れようと足掻く度に戒める温もりの力は強くなり、息苦しさを覚えて緩んだ唇の隙間に強引に潜り込んだ温かく湿ったものが、怯えるシルヴィーの舌に絡み付く。
見開いた視界を占めるのは至近距離の凝視にも耐える美貌。
強引にけれど乱暴な事はせず絡み付いたものが舌を吸い上げてくる。
自分の身に起きた事が理解出来ず、唯拘束される事に怯えて抗うシルヴィーの体から力が抜けていく。
シルヴィーの膝からも力が抜け自分で立っていられなくなった頃、レオニードは奪った時からは想像も付かないほどゆっくりと、優しく、そうっと離れていった。
離されて、力の抜けた膝が崩れ落ちたシルヴィーはその場にへたり込んでしまう。
そのシルヴィーに、屈み込んで額に唇を落としたレオニードは優しく微笑んで踵を返した。
シルヴィーは理由の理解らない胸騒ぎを覚えて、立ち去って行くレオニードの背中を呆然と見送ってしまう。
吹き付ける風に乱された髪が舞い上がり、白い顔を隠す頃、シルヴィーは無意識のままにレオニードが唇で触れていったところに指を重ねていた。
作品名:暁の獅子 黄昏の乙女 作家名:亜梨沙