一期一会
映し出された写真の女性は、小学生時代の柳沼淑子の面影を色濃く残しているように思われたのである。
「それで、お父様がとても音楽がお好きでいらっしゃったんですって?」
「ええ。父はクラシックが大好きで家にはピアノがあったんです。
『僕は医者でなかったら多分ピアニストになってただろうな』ってよくいってたくらいですから。我流ですけど自分でも弾いていたんですよ。私に手ほどきをしてくれたのも父なんです」
「まあ、そうだったんですの」
「私が生まれたのは、ちょうどLPが出始めた頃でした。まだステレオじゃなかったんですが、大きなコンソール型電蓄というのがあって、朝から晩までクラシックを聴かされました。モーツァルトの四十番のシンフォニーを聴くと機嫌よく寝たんですって」
「モーツァルトが子守唄だなんて、貴女らしいお話。モーツァルトには子守唄もありますのにシンフォニーだなんて、モーツァルトさんが聞いたらどんな顔をするでしょうね」
「こんな筈じゃなかった」
二人は声を立てて笑った。
「でも、モーツァルトの子守唄って、本当はモーツアルトの作曲じゃあないそうなんです。ご存知でした?」
「えっ、そうなんですか」
「ええ。本当はベルンハルト・フリースというお医者さんが作ったんです。奥さんがモーツァルトのお弟子さんだったんですって」
「へぇー、そうなの。それがどうして・・」
「そんなに深く追求しないでよ。私、モーツァルトの研究家じゃありませんもの」
谷沢響子は右手を顔の前で左右に振りながら困惑したような表情をして笑った。
「そりゃあそうね。それで、本格的にピアノをお始めになったのは・・・」
「ええ。物心がついた時からピアノは私のおもちゃでした。最初は父が面白がって教えてくれたんですが、五才になると近所に住んでいた音大出の先生に見てもらうことになったんです」
「お父様も自分では駄目だと・・」
「そう。自分の果たせなかった夢を私に託したかったんだと思います。だから変な癖がついても困るでしょう」
「変な癖ねぇ」
変な癖、という言葉に色んなことを想像したのか二人は又声を立てて笑った。
鮎川真理子は手元の資料を眺めながら話を進める。
彼女の母親は、響子が十五才のとき原爆の影響で白血病が発症して亡くなり、二年後には父親も癌で亡くなったらしい。
両親を失った彼女は、神戸で貿易商を営んでいた叔父に引き取られてピアノを続けることになったのである。
「昭和五十二年に武蔵野学園の音楽科を受験されたんですね」
「ええ。準備のために一年浪人して藤原先生の個人レッスンを受けました」
藤原弦一郎はその大学のピアノ科教授であったが、年に何回かはリサイタルを開いていたので私も何度か聴いたことがあった。
「受験のために上京した日、私にとって忘れられない『一期一会』がありましたの」
響子は当時のことを回想するかのようにしばらく目を閉じた。
「あれは新幹線の中でした。私がE席に座っていると隣のD席に父と同じような年恰好の方が乗っていらっしゃって、私の顔を見るとにっこり笑って会釈されたんです。
私も思わず会釈を返しながらほっとしました。
だって新大阪から東京まで三時間ですよ。変な人が隣にいたらいやでしょう。
その方は目を瞑って何かのメロディーをハミングしていらっしゃるんです。私の知らない曲でした。何度も繰り返して歌われるんですが、それが試すように少しづつ変わるんです。私は鞄から五線紙のノートを取り出してそのメロディーを書き取っていました。
音大の試験科目に聴音というのがあるんです。試験官の弾くピアノの和音やメロディーを聴いて、それを五線譜に書くんですが、その練習のつもりでした。
(この方はどんなお仕事をしておられるのかしら。ひょっとして音楽関係のお仕事かも)
私は思い切って話しかけてみたんです。
『それ、何のメロディーなんですか?』
『ああこれ?自作の詩に曲をつけようと思ってね』
『もしかして作曲家の先生?』
私が訊ねるとその方は大笑いしました。
『まさか。音楽は僕の趣味ですよ』
『趣味で作曲をされるんですか?』
『作曲なんてもんじゃないけど、歌のメロディーくらいなら作れると思ってね。君も音楽好き?』
『はい。これから武蔵野学園の試験を受けに行くんです。それで今のメロディーで聴音の練習をしていました』
そういって今聴いて書いた五線譜をお見せしたんです。するとその方も自作の詩を見せて下さいました」
彼女は手帳を開いてその詩を朗読した。
やつれし翅をふるわせて
枯葉にすがる揚羽蝶
ああ輝ける太陽よ
緑の森の想い出よ
今は羽ばたくすべもなく
つめたき死をば待つばかり
夜のしじまの忍び寄り
かそけき羽音ふと止みぬ
虹の衣も花園も
はかなく果てし夏の夢
枯葉の上に死せる蝶
白く照らせる秋の月
『蝶』という題の詩でした。私は今聴いて書いたばかりの五線譜にその詩を書き込んで小声で歌ってみたんです。何だかシューベルトの歌曲みたいにきれいな曲でしたわ」
何という偶然。
私は心臓が止まるかと思うほど驚いた。その時彼女の隣に座ったのは、ほかならぬ私だったからである。
シューベルトの歌曲みたいな、といわれるといささか面映ゆいが、そのメロディーは文語体で七五調の古臭い形式の詩にはよく合っていて、私はそれなりに気に入っていたのである。
「『何科を受けるの』と訊かれたので『ピアノ科です』とお答えしたんです。
そしたら『君ならきっと素晴らしいピアニストになれるよ。頑張ってね』といって両手で私の右手を包むように握手して下さいました。温かい手でした。何だか亡くなった父が励ましてくれたような気がして涙がこぼれそうになりましたの」
「まあ。とてもいいお話ですね。それでその方とは?」
「それが、お名前も何も伺ってないんです。
この詩が唯一残っているだけで・・・」
「じゃあ本当に一期一会だったんですのね。この放送を見ていらっしゃればいいのにね」
「見てますよ」
私は思わず声を出してしまった。
旅先で偶々隣り合わせに座ったからといって、会話まではしても後で会う必要もないのに名乗り合うことは先ずない。そしていつしか忘れ去ってしまうものである。
彼女の話はすっかり忘れていた三十年以上も昔のことを鮮やかに思い出させてくれた。
当時私は中国化学産業という会社に勤めていて、農作物に使う植物ホルモン剤を全国の農協に卸して回る営業マンだった。
二月の受験シーズンだった。東京へ出張する新幹線で私の隣が高校生らしい女の子だったことがあった。別に下心があった訳ではないが、利発そうで愛らしい顔をみて私は思わず頬が緩んだのである。
「蝶」という題の詩は人の世の無常観を瀕死の蝶に託して作ったものだ。
当時私は音楽に凝っていて、我流で下手なピアノを弾いたり作曲を試みたりしていたので、その詩で歌曲を作ろうと思ったのだ。
容貌は別として、音楽を趣味としていた点では確かに彼女の父親に似ていたのだろう。
車内での少女とのやり取りは概ね谷沢響子が話した通りだった。