③全能神ゼウスの神
「奴隷だったけど、主に気に入られて出世して、最後は大宰相にまでなった。」
その話に、ひとりの歴史的人物を思い出した。
「もしかして…サタン様の真名は…。」
「おーっと!」
サタン様はわざとおどけたように遮ると、自分の唇に人差し指を当てて色気たっぷりに首を傾げる。
「神にとって真名って、明かせねーんだ。過去のしがらみにとらわれちゃうと困るからさ。例えば俺なんかだと、仕えてた王が俺より下位だと、ビミョーじゃん。」
(たしかに。)
「じゃあ私が『陽』って言ったのも、『リカ様』って言ったのも…。」
「ああ、それは大丈夫。二人とも、その真名は俺とフェアリーちゃんしか知らねーし。」
(たしかに。)
ホッと胸を撫で下ろす私を、サタン様はやわらかな眼差しで見下ろした。
「…じゃ、あとで食料や着替えを運んであげるよ。」
「ありがとうございます。」
私が笑顔で頭を下げると、サタン様がジッと私を見つめる。
「…サタン様?」
その赤い瞳を真っ直ぐに見上げると、サタン様が穏やかに微笑んだ。
「…なんかあったら、いつでも連絡しなよ。」
言いながら、私のスマホを手渡してきた。
(持ってきてくれてたんだ…。)
私はギュッとそれを抱きしめながら、満面の笑顔でサタン様を見上げる。
「あ…じゃあ早速、ひとつだけお願いがあるんですけど、いいですか。」
サタン様は、すぐに笑顔で頷いてくれた。
「ココアとチョコレートがたくさん欲しいです。」
私の言葉にサタン様がきょとんとした表情になる。
けれど次の瞬間、お腹を抱えて大笑いし始めた。
「だから太んだよ!」
(…ぐっ!)
ストレートな言葉にムッとしながらも反論できない私は、頬を膨らませてサタン様を睨む。
「いいよ、持ってきてあげる。」
サタン様は目尻の涙を拭いながらそう言うと、そのまま小屋を出て行った。
見送ろうと私も扉から出たけれど、その時にはサタン様は大きな黒い翼を広げて飛び去ってしまっていた。
突然、森の奥にひとりで取り残され心細くなる。
けれど、自分で決めたことだ。
私は手の中のボタンを見つめ、歯を食いしばる。
今までのサタン様の話を聞く限り、リカ様がゼウスに返り咲くことは、ないだろう。
サタン様には申し訳ないけれど、そもそも私の目的は、それではないから構わない。
ただ、傍にいることができれば、それでいいから。
でも、今の私では、リカ様にとって傍に置くメリットが何もない。
(ゼウスの時は、フェアリーの力が必要だったから傍に置いてもらえたんだもんね。)
「リカ様は、今なにを必要としてるのかな。」
私は、赤と金で細工が施されたボタンに、リカ様の顔を映した。
「…魔導界にも、チョコレートとかココアはあるのかな。」
私は椅子に腰かけると、ぼんやりと考える。
そのうち、疲れていたのかうとうととし始めた。
テーブルに突っ伏す形で眠り込んだ私がふと目を覚ますと、室内はすっかり暗闇に包まれていた。
外から、聞いたことがない生き物の声が聞こえる。
恐ろしくなった私は電気をつけようとして、ふとテーブルの上の荷物に気がついた。
あの後、サタン様が戻ってきてくれたようで、そこには食料と着替え、頼んでいたチョコレートやココアなどがたくさん山積みにしてあった。
そして、置き手紙もある。
『暗くなっても、灯りは点けるなよ。怖いだろうけど、我慢しな。』
(…。)
(そうだよね…。隠れ住んでるのに、灯りが点いてたら誰かが様子見に来ないとも限らないもんね。)
その時、遠くで獣の遠吠えが聞こえた。
ぞくりとした私は、慌てて寝室へ飛び込む。
寝室は小さな明かり取りの窓があるだけで、人や獣が入ってこれない。
扉に鍵をかけると、私は布団に潜り込みスマホを起動させた。
『サタン様。眠ってしまっていて、ごめんなさい。服と食料、ありがとうございました。』
ショートメールを送信すると、すぐに返事が返ってきた。
『戸締まりしっかりしなよ。あ、それから灯りはつけないように。』
『はい。手紙にもそう書いてあったので、点けていません。お気遣いありがとうございます。』
すると、意外な返事が返ってくる。
『え?俺、手紙なんか書いてないよ。』
「…え?」
私は驚いて、布団から起き上がった。
(だって、手紙…。)
その瞬間、ハッと気づく。
急いで寝室を飛び出すと、テーブルの手紙を持って、再び布団に潜り込んだ。
『暗くなっても、灯りは点けるなよ。怖いだろうけど、我慢しな。』
「そうだよ。…これ、この言葉…サタン様の口調じゃない…。」
この口調には、覚えがある。
「…リカ様?」
信じられないけれど、きっと間違いない。
私はボタンと手紙をギュッと抱きしめると、布団の中で目を瞑った。
(もう、怖くない。)
たった30文字程度の手紙だけど、リカ様が気に掛けてくれたかもしれないと思うだけで、心に暖かさと勇気がわいてくる。
(やっぱり、リカ様は優しい。)
(でも、その優しさに甘えちゃダメだ。)
(リカ様の役に立てるよう、何をすべきか考えて、努力しなくちゃ!)
私は布団の中で、何度も何度もその手紙を読み返しながら、眠りについた。
(つづく)