マナティの憂鬱
桜子は僕の彼女だ。気立てがよくて料理も上手い、艶やかな黒髪に大きな瞳、ちらっと覗く八重歯がチャームポイントの、自慢の恋人だ。ただ多少部屋の片付けができない所と、少々頑固な所が玉に瑕だけども。
今日は久々の水族館デートだからか、桜子は明らかにちょっと気合を入れてお洒落をしてきていた。普段履かない白い花柄のタイトスカートは思いの外似合っているし、太ももの形の良さが際立って、ついちらちらと目が行ってしまう。
今日は桜子も本当に楽しそうで、色とりどりの魚が回る大水槽を目の前にして、子どもみたいにはしゃいでいた。小さくて丸っこいフウセンウオの水槽の前ではかわいいを連発していたし、マンボウの水槽の前ではあまり似ていない顔真似を披露していた。そう、館内のレストランでランチを食べ終わるまでは、本当にいつも通りだったのだ。
そんな桜子が、午後になって急に、マナティの水槽の前から動かなくなってしまった。
もうすぐイルカショー始まるよ、と声をかけても、微動だにしない。ちらと顔を覗き見ると、びっくりするほど無表情だった。あ、これはまずい、と僕は思った。それは明らかに彼女が怒っている時の顔だった。
何が悪かったのだろう。全く思いあたらない。たぶん、桜子に聞いても何も言ってくれないのだろう。生理か?そもそも僕のせいなのか?
目の前ではマナティが、焦る僕の気も知らないで、あらぬ方向を見つめたままぼけっとしていた。それにしてもこいつ動かない。桜子も動かないがマナティも動かない。お前はマナティか、とよほど桜子に言ってやりたかったが、そこまで空気の読めない男ではなかった。それに抱え込んだ膝の上に仏頂面をのせてじっとしている桜子は、悔しいがちょっとかわいい。
それに僕は知っている。こういう時は、頭を撫でるか、抱きしめてやるかすると、大抵機嫌が直るのだ。ただ公衆の面前で堂々と抱きしめるのはちょっと恥ずかしい。だから僕は、スマートにごく自然な感じで、さりげなくそっと桜子の肩を抱いた。
その瞬間、信じられない勢いで突き飛ばされた。僕の体は無様に転がって、危うく階段の角に頭をぶつけるところだった。
ちょっとひどくないだろうか。さすがに怒ってもいいのではないだろうか。ここは彼氏として、いや人として毅然とした態度で接しなければなるまい。僕はその場で素早く立って言った。
「いい加減にしろよ。急に黙り込んで訳わかんねえよ。つーか膝すりむいたじゃねえか。イルカショー始まるって言ってるだろ。置いてくぞ。」
そう怒鳴って出ていこうとした瞬間、今まで無表情だった桜子の顔が、みるみるうちに真っ赤になり、くしゃっと歪み、大きな瞳から溢れるように涙が零れだした。それからガタンと立ち上がって、僕を押しのけて出て行ってしまった。後には茫然と立ち尽くす僕と、一向に動かないマナティが残された。
すぐに追いかけるべきだったのだと思う。だけど今はそんな元気がなかったし、僕も多少は意地になっていた。僕はその場に座り込んで、じっと膝を抱えた。……疲れた。目の前の水槽に目をやると、この世の終わりみたいな表情をしているであろう僕とは対照的に、マナティが全く何も考えていないような顔をして浮かんでいた。
「お前はいいよな、そうやって毎日ぼーっと過ごしてればいいんだから」
マナティ相手に何をひとりごちてるんだ、とは思ったが、呟かずにはいられなかった。
そうしているうちに水槽にはいつの間にか飼育員がやって来て、キャベツやら得体のしれない草やらを水の上に投下していた。すると今まで微動だにしなかったマナティが急にすうっと水面に浮かんできて、前足を器用に動かしながら草を食べ始めた。
「お前、さっきまでぴくりともしなかったのに、エサにだけは反応するのな。」
まったく、よく分からない生き物だ。だけど僕は、これからマナティよりももっとよく分からない一匹の生き物と対峙しなければならない。僕は小さく溜息をついた。
「…こういう時、女の涙ってずるいよな。泣かれたらどうしたって勝てないじゃないか。」
3年付き合っても、まだ分からないことがたくさんある。だが3年という年月の中で、分かるようになったこともそれなりにあるのだ。桜子がどこへ行ったのか、おそらく見当はついていた。
今日は久々の水族館デートだからか、桜子は明らかにちょっと気合を入れてお洒落をしてきていた。普段履かない白い花柄のタイトスカートは思いの外似合っているし、太ももの形の良さが際立って、ついちらちらと目が行ってしまう。
今日は桜子も本当に楽しそうで、色とりどりの魚が回る大水槽を目の前にして、子どもみたいにはしゃいでいた。小さくて丸っこいフウセンウオの水槽の前ではかわいいを連発していたし、マンボウの水槽の前ではあまり似ていない顔真似を披露していた。そう、館内のレストランでランチを食べ終わるまでは、本当にいつも通りだったのだ。
そんな桜子が、午後になって急に、マナティの水槽の前から動かなくなってしまった。
もうすぐイルカショー始まるよ、と声をかけても、微動だにしない。ちらと顔を覗き見ると、びっくりするほど無表情だった。あ、これはまずい、と僕は思った。それは明らかに彼女が怒っている時の顔だった。
何が悪かったのだろう。全く思いあたらない。たぶん、桜子に聞いても何も言ってくれないのだろう。生理か?そもそも僕のせいなのか?
目の前ではマナティが、焦る僕の気も知らないで、あらぬ方向を見つめたままぼけっとしていた。それにしてもこいつ動かない。桜子も動かないがマナティも動かない。お前はマナティか、とよほど桜子に言ってやりたかったが、そこまで空気の読めない男ではなかった。それに抱え込んだ膝の上に仏頂面をのせてじっとしている桜子は、悔しいがちょっとかわいい。
それに僕は知っている。こういう時は、頭を撫でるか、抱きしめてやるかすると、大抵機嫌が直るのだ。ただ公衆の面前で堂々と抱きしめるのはちょっと恥ずかしい。だから僕は、スマートにごく自然な感じで、さりげなくそっと桜子の肩を抱いた。
その瞬間、信じられない勢いで突き飛ばされた。僕の体は無様に転がって、危うく階段の角に頭をぶつけるところだった。
ちょっとひどくないだろうか。さすがに怒ってもいいのではないだろうか。ここは彼氏として、いや人として毅然とした態度で接しなければなるまい。僕はその場で素早く立って言った。
「いい加減にしろよ。急に黙り込んで訳わかんねえよ。つーか膝すりむいたじゃねえか。イルカショー始まるって言ってるだろ。置いてくぞ。」
そう怒鳴って出ていこうとした瞬間、今まで無表情だった桜子の顔が、みるみるうちに真っ赤になり、くしゃっと歪み、大きな瞳から溢れるように涙が零れだした。それからガタンと立ち上がって、僕を押しのけて出て行ってしまった。後には茫然と立ち尽くす僕と、一向に動かないマナティが残された。
すぐに追いかけるべきだったのだと思う。だけど今はそんな元気がなかったし、僕も多少は意地になっていた。僕はその場に座り込んで、じっと膝を抱えた。……疲れた。目の前の水槽に目をやると、この世の終わりみたいな表情をしているであろう僕とは対照的に、マナティが全く何も考えていないような顔をして浮かんでいた。
「お前はいいよな、そうやって毎日ぼーっと過ごしてればいいんだから」
マナティ相手に何をひとりごちてるんだ、とは思ったが、呟かずにはいられなかった。
そうしているうちに水槽にはいつの間にか飼育員がやって来て、キャベツやら得体のしれない草やらを水の上に投下していた。すると今まで微動だにしなかったマナティが急にすうっと水面に浮かんできて、前足を器用に動かしながら草を食べ始めた。
「お前、さっきまでぴくりともしなかったのに、エサにだけは反応するのな。」
まったく、よく分からない生き物だ。だけど僕は、これからマナティよりももっとよく分からない一匹の生き物と対峙しなければならない。僕は小さく溜息をついた。
「…こういう時、女の涙ってずるいよな。泣かれたらどうしたって勝てないじゃないか。」
3年付き合っても、まだ分からないことがたくさんある。だが3年という年月の中で、分かるようになったこともそれなりにあるのだ。桜子がどこへ行ったのか、おそらく見当はついていた。