①全能神ゼウスの神
全能神ゼウス
「た…助けて!陽(はる)!!」
暗い公園の中、私は男を見つめながらそのまま後ずさる。
「そいつ今、外国だろ?呼んでもムダ無駄。」
「!?…なんでそれを知って…」
下卑た笑い声をあげる男から逃げようとしたけれど、背中に柵が当たり行き止まった。
ハッとして、柵の先の池をふり返った瞬間。
ふわり、と体が持ち上がった。
「え?」
「ヤってから殺そうと思ったけど、ま、いいや。」
そのまま宙に投げ出された体は、次の瞬間、激しい水音と共に水中へ沈む。
足を抱えられ、池に落とされたのだ。
月明かりもなく、外灯も遠くにある暗い池の中、もがけばもがくほど体はどんどん沈んでいく。
呼吸をしようと吸い込んだのは大量の水で、息ができない。
(陽!)
ぎゅっと目を瞑った瞬間、突然体が浮いた。
息も、できる。
「あれ?」
瞼の裏に光を感じて目を開けると、そこは幻想的な光が射し込む美しい森の中だった。
体がゆらゆら揺れて、辺りを見回すと、どうやら水に浮いているようだ。
でも、動いても水音がしない。
それになんだか弾力がなく、まるで空気のようだ。
試しに手を挙げて見ると、濡れていない。
そしてなぜか…虹色に輝いている。
「なんだこれ。」
突然聞こえた低い冷ややかな声に、体が震えた。
「すげぇ…虹色。」
その声はどんどん近づいてきて、挙げていた私の手を掴む。
「おまえ、どっから…」
その瞬間、私はその手を思いきりふり払った。
「来ないで!」
言いながらやみくもに腕をふり回すと、ガツッと硬いものに当たる。
「痛っ!」
どうやら顎に当たったらしく、男は顎を押さえてうつむいた。
私の手も、ズキズキする。
(逆上…される…!?)
背筋がぞくりと震え、私は手を擦りながら慌てて逃げようとするけれど、ぷかぷか浮かぶだけでうつ伏せにすらなれない。
あえなく再び腕を掴まれた私は、ぎゅっと目を瞑った。
(…陽!)
けれど、聞こえてきたのは驚くほど無機質な声色だった。
「こら、侵入者。おとなしくしな。」
怒るでも脅すでもない淡々とした口調に、私はそっと目を開ける。
すると視界に広がったのは、この世のものとは思えないほど端正な顔立ちの男の人だった。
まっすぐなサラサラの黒髪は、前髪が少し目にかかる長めで、サイドと襟足は短い。
その前髪から覗く黒い瞳は涼しげで無機質な色をした、まるで蝋人形のようだ。
「…なんで」
思わず口をついて出た言葉に、彼は首を傾げる。
「?」
「…なんでそんな女の人に不自由してなさそうなのに、私を襲うんですか?」
涙をためながら睨むと、彼は私の手首を掴んだまま、ジッと見つめて来た。
その黒い瞳も顔立ちも抜けるように白い肌も、恐ろしく綺麗だけど…命を感じない。
あまりにも人間離れした様子の彼の感情の読めない視線から目を離せず、再び私の肌が粟立った。
すると、おもむろに彼は私の手首を放す。
「人違い。」
そして、淡々と告げた。
「私は、おまえを犯そうとした男じゃない。」
「!」
目の前の彼は、いつの間にか茶髪、茶色の瞳になっている。
「髪と瞳の色が…。」
私が震える声で言うと、彼は水面に視線を逸らした。
そして無表情で呟く。
「早いな。いつもは半日かかんのに。」
言いながらゆっくりと私へ視線を戻した彼は、円を描くように腕を動かした。
その瞬間。
私の体はシャボン玉のような物に包まれ、ふわりと宙に浮く。
「!!」
彼が腕をゆっくりと前へ出すと、シャボン玉はゆらゆらと動き、柔らかな草の上に着地した。
地面に座る形で降りた瞬間シャボン玉は弾け、私の目の前には虹色に輝く水面とその光を纏い、より美しさを増した上半身裸の男の人がいた。
「これ、おまえの仕業?」
ほとりに腕を乗せ、上目遣いに訊ねる彼は、もう色素がすっかり抜けて、髪の毛は白銀に輝き、瞳も金色になっている。
「な…んで…色が…。」
あまりにも異様な状況に、私の体がふるえた。
「こ…こ、どこ?」
ふるえながら後退ると、彼は小さくため息を吐いて、身軽に草むらに上がる。
「…!ぎゃああああ!」
凄まじい悲鳴…いや絶叫?を上げて、私は顔を逸らした。
だって、全裸だし!!
隠すことも慌てることもなく、堂々と私の横を横切り服を手に取る彼から逃れようと、私は立ち上がった。
けれど、腰が抜けているのか、そのまま派手に転ぶ。
「簡単に、男にパンツ見せんなよ。」
淡々と言われた私は、慌ててめくれたスカートを手で下げた。
「丸出しのあなたに言われたくない!」
思わず言い返した私に、ズボンを履いた彼はシャツを手に向き直ると、その場にあぐらをかいて座る。
「ここは全能神ゼウス専用の御祓(みそぎ)の泉。私だけの場所で裸になって何が悪い。」
(全能神…ゼウス?)
意味が分からず首を傾げる私に、彼はおもむろにシャツを投げて寄越した。
「着な。」
不思議に思い、何気なく胸元を見ると、ボタンが引きちぎられ、外された下着と露になった胸元が目に入る。
「!!」
私は慌てて、渡されたシャツで胸元を隠した。
襲われた出来事を鮮明に思い出し、私の体がカタカタと震え出す。
「ちゃんと、羽織りな。」
彼は2メートルほど離れた場所にあぐらをかいたまま、無機質な瞳でそんな私を見た。
私は後ろを向くと、シャツを羽織りボタンを全部留める。
するとそのシャツからは、仄かに甘い香りがした。
「ありがとうございます。…あと、疑って殴って…ごめんなさい。」
上半身裸の彼に向き直って頭を下げると、それには応えず、彼は御祓の泉に目を向ける。
「やっぱ、おまえの仕業か。」
ポツリと呟かれた言葉につられるように、私も泉に目を向けた。
するとそこはもう虹色でなく、鏡のように景色を写した澄んだ水面が広がっている。
「どういう…こと?」
呆然とする私に視線を移すと、彼は口をつぐんだ。
そして視線を逸らし、少し考える。
しばらくして再び私を見つめると、静かな声色で話し始めた。
「ここは、神の国だ。」
「…かみのくに…。」
反復する私に、小さく頷くと無表情で言葉を続ける。
「私は、全能神ゼウスをしている。」
「…。」
「…ゼウス、をしている?」
首を傾げる私に、彼は言葉を足した。
「『全能神ゼウス』という仕事をしている。」
(…。)
「…え?」
(全能神ゼウス、って…職業なの?)
(ゼウスって名前の神様が、全能神って呼ばれてるんじゃないの?)
「それは、人間が作った神話の『ゼウス』。」
「!今、心を読んだ!?」
「全能神だから。」
全く表情を変えず、淡々と彼は言う。
(全能神…てことは何でもできるってこと…。)
(ゼウス…『様』…でいいの?役職名だというなら、様付けは変?)
「どーでもいい。真名は教えられないから、ゼウスでいい。」
(!また読まれた!!)
「…聞こえるんで。悪いな。」
目を伏せて謝る…ゼウス様、は悪い人に見えなかった。
(『様』って、言い慣れない…。)
「だろね。」