睡蓮の書 五、生命の章
シエンは肩で激しく息をしながら、片側の眼でセトを映した。はた、はたと滴る音、それをまた地響きが呑みこみ、足もとを揺さぶる。
「粛清こそ我が使命――この血族より生じた誤りを、正さねばならん」
己の正しさへの確信が、オリーブ色の瞳の色彩をくっきりと闇に浮かびあがらせた。
シエンは静かにその目を閉じる。
「破壊――そうかもしれない」
そうしてぽつりと言った。
「正しさがどこにあるのか、……俺には、分からない」
もっとも忌むべきと考えていた、破壊という言葉が、たしかに今は自身の行為を表している。それは、正しいと言える形ではないかもしれない。
「だが、お前が己の使命を見据えるように、俺にも、成すべきことがある」
シエンは自身を奮い立たせるように、言った。
それはこの剣を手にしたときに――否、自身が生じたそのときに、定められていたのではないか。
太陽神側に生じたからではない。それは綿綿とつらなる地属の血統が築き上げてきた価値観、その凝り固まったものから引き離すために。そうして、その力をして守護するものを、改めて確かにするために。
そこに意味を見いだせたこと、それが今のシエンにとっての軸だった。地の意思を知り、その流れとひとつとなって生きるのだ、と。
「どこまでも愚かだな……貴様は」
セトは顎をひきあげ嘲笑する。
「それを成すべきとするものこそが、太陽神と同じお前の、秩序をかき乱し滅びを呼ぶその性質なのだ!」
「ちがう、それを求めるのは大地の意思だ!」
セトが振り下ろす幅広の刃を、シエンは彼の片刃の剣で受け止める。その衝撃に加えセトのもつ剣身そのものの重みが、ぎりぎりとシエンを圧した。身体じゅうがきしみ悲鳴をあげる。
渾身の力で押し返したその直後、シエンは素早く身を翻し距離をとる。そこへ狙いすましたかのように放たれるセトの力。
シエンは息つく間もなく攻撃に晒され、疲労が急速に積み上がっていた。片側の視力が失われたことは、この薄暗い空間ではたいした障害ではないと思われた、しかしそのぶん余計に、セトの立つ位置に、その力の動きに注意を払わなければならなかった。
そこに追い打ちをかける、傷の疼き。またセトの剣によって呼び起こされたのか、大腿に負った古傷までもがじんじんと熱を持ち、彼を苦しめる。
一方セトは余裕の笑みを絶やさない。獲物を追いつめたものがするようにぺろりと唇を舐め、次はどうしてやろうかと楽しそうに肩を揺らす。
すとひざを折り、セトは彼の力を地に撒いた。シエンもすかさず地に腕をのばす。地の底で彼らの力が衝突し、その衝撃がその場に湧き出るように岩盤が砕かれ、引き離され割れ目を生じ、また打ち付けあい隆起する。
その攻防のうち、シエンは激しい消耗に一瞬めまいを覚えた。
そうしてセトへ向けられた注意に一寸の欠けが生み出される。
それを補うはずの視覚が、片側だけでは迫りくる刃との距離を正確にとらえることができなかったのだ。
寸でのところで避けきったと、そう思ったとき。痛みを知るより先に、彼の右腕に食い込んだ黒い刃の、なめらかな艶を見た。
「……!」
それはあざやかに骨まで断ち、彼の腕を斬り落としていた。
作品名:睡蓮の書 五、生命の章 作家名:文目ゆうき