his pure heart
『his pure heart』
「飯田さん、ちょっといいですか」
と声をかけられた時、何かを期待したわけではなかった。けれど少しだけ胸が高鳴ってしまったのは否めない。
所属するフットサルサークルに割り当てられた、学生会館内の2団体共有のサークルスペース。部屋を二分して反対側を使うのは合コン中心のイベントサークルだけど、今は誰もいない。こちら側も今はあたしイコール飯田菜穂子(なほこ)と、声をかけてきた1年下の後輩だけだった。人数が多いからこういう状況は珍しい。
「なに、どうかした名木沢(なぎさわ)」
珍しいというなら、彼がこういうふうに話しかけてくるのもそうだ。
名木沢祐紀(ゆうき)。
まだ1年だけど近いうちに戦力になり得る実力の持ち主。中学高校はサッカー部でずっとレギュラーだったという話もうなずける。
そして、間違いなく学内で5本の指に入るレベルの有名人。その確実に一般人離れした容姿で。入部してきた時のサークル内の騒ぎ具合は半端じゃなかった。
自分のカッコ良さをまるで鼻にかけない性格と人当たりの良さで、男連中のやっかみは鳴りを潜めたけど(若干名の例外はどうしても居るけど)、女子の人気が高まってしまったのもまた事実。しばらくはマネージャー希望者が後を絶たず、ふるいにかけるのに苦労する日々が個人的には続いた。
今日の名木沢は、1限目が急に休講になったとかで、9時過ぎに現れた。普段そんな時間に来ているメンバーはほぼいないからこその現状と言える。ちなみにあたしは、サークル管理団体に提出する上半期の試合とか会計のデータ報告書の、最終確認をするため早く出てきた。
書類を見ている間、名木沢は荷物を置き、着替える用の別室へ行ってジャージに着替え、一人でジョギングに行って帰ってきた。最初から最後まで、見ている限りではどことなく集中しきれていない目をして。
何か悩みでもあるんだろうか、と思っていたところに声をかけられた。正直、これ以上続くようならこっちから聞いてみようか、そうしないと気になりすぎてチェックに集中できない、と思っていたところだったから内心ほっとした。しかし当然ながら、すぐに「何だろう?」という疑問が浮かんでくる。
テーブルを挟んで向かい側に座る名木沢は、心持ち斜めにしていた姿勢をこちらにまっすぐ向け直して、にわかに背筋を伸ばした。真剣な表情に、思わずこっちの背中も伸ばさなければいけない心地にさせられる。
……それにしても、本人には自覚がないのかもしれないけど、こういう目でまっすぐ見られると、個人的に特別な話じゃないと察してはいても、少なからずドキッとしてしまう。ひょっとして告白されるのかも、と勘違いしちゃう女子もいるんじゃないかと思うほどに。
もっとも、名木沢がこんな目をして見つめる女子はそう多くないだろう。あるいは一人だけ、なのかもしれないけど。
ちょっとだけ感じた寂しさ、むなしさを振り払うため、もう一度「なに?」と尋ねた。テーブルの上で手を2回ほど、組んではほどくことを繰り返してから、すっと息を吸い込んで名木沢は口を開く。
「実はその、再来週、彼女の誕生日なんですけど」
反射的にがっかりした気持ちを、強引に引き上げる。まったく、あたしも諦めが良くない。
「へえ、ってそういや、名木沢も誕生日近いんじゃない?」
「知ってるんですか」
「あたしを誰だと思ってるの。マネージャー様ですよ」
入部の際に提出される、個人情報書類のチェックと管理は基本的にマネージャーの役目だ。
「あ、そうかーー実を言うと彼女と同じ日で」
目をやや伏せて、こめかみあたりの髪を触りながら照れくさそうに名木沢は答える。うーん、と若干複雑な感情を覚えつつ、記憶をいくつかたどった。
名木沢が今の「彼女」と付き合い始めたのはわりと最近、先月の初めくらいのはずだ。その、本当に少し前までは、高校から付き合っていたという相手がいたはず。
普通より目立つ、注目を集める学生に関しては、そういうことに敏感な子たちの間で常に、相手がいるいないといった情報交換がされている。誰か一人でもSNSでつながっていれば、おのずから動向はわかる情報網ができていた。たまに、全然関わりのない学生の情報まで入ってきてまぎらわしいケースもあるけど。
ともあれそういうネットワークがあるから、名木沢の情報が出回らないはずがなかった。高校からのカノジョと別れた、と聞いたのが10月の初め頃で、その2日後ーー第一報が学内に広まりきった直後ぐらいのタイミングでーー、新しい「彼女」ができたという情報を知った。
それだけ細かく覚えているのは、個人的に一番、気にかけていた情報だったから。だから正直、第二報のショックは小さくなかった。第一報でちょっと期待を持った分だけ。
「ふーん、それで?」
まあ縁がなかったんだろうから仕方ない、と自分に言い聞かせつつ、表面上はごくごく普通に、後輩の相談に乗ってあげる先輩として振る舞う。
「……プレゼント渡すのって、どこがいいと思います? 女子ってどういうのが嬉しいもんですか」
おや、と思う。初めて女子と付き合うウブな男子みたいなことを聞くから。
「何をあげる気なの」
「えーと、腕時計を」
「だったら別に、学校で渡してもいいんじゃない? 時計なら見られても問題ないでしょ」
「いや、……彼女がたぶん、知り合いとかに見られると恥ずかしがると思うんで、できればそれ以外でと思って」
若干言いにくそうに、けれど一生懸命説明する名木沢の姿は、学内で1・2を争うモテ男子とは思えない。
「じゃ、自分ちにすれば。一人暮らしでしょ確か」
そう提案すると、名木沢はしばらく固まってしまった。一言では形容しにくい表情を浮かべて。
「ーーーーそれもちょっと。まだ呼んだことないんで」
やっと硬直から解けて、あきらかに困ったように言う様子が非常に興味深く、同時に可笑しくも感じた。だから少しからかってやりたくなった。
「ならいっそ思いっきり盛り上げちゃえば? ホテル行くとかさ」
ガタッ、ゴンと小さくない音がした。名木沢が動揺のあまり椅子から立ち上がりかけ、その拍子にテーブルの縁で膝を打った音。まともに打ち付けたからかなり痛そうだ。深くうつむいているから表情は見えないけど。
「…………飯田さん、本気で考えてくれてます?」
膝をさすりながら、やっと顔を上げた名木沢はまだ痛そうに顔をしかめつつ、同時にげんなりした様子でそう言った。からかい過ぎたかとちょっと反省する。「ひょっとして未経験?」とも聞いてみたかったけど口に出すのはやめて、代わりに「ごめん」と反省の表明をしておく。
なんだか、いろいろ予想外でおもしろいけど、驚いてもいる。
何年も付き合ったカノジョがいたのだしそれなりに女慣れしているだろう、とか勝手に思っていたけど、どうやら違うらしい。イメージよりも彼は相当、純情なようである。
地味彼女。名木沢の今の「彼女」はそういうふうに言われている。2回か3回見かけたことがあるその彼女は確かに、お世辞を言おうとしても難しいくらいに地味な印象だった。
「飯田さん、ちょっといいですか」
と声をかけられた時、何かを期待したわけではなかった。けれど少しだけ胸が高鳴ってしまったのは否めない。
所属するフットサルサークルに割り当てられた、学生会館内の2団体共有のサークルスペース。部屋を二分して反対側を使うのは合コン中心のイベントサークルだけど、今は誰もいない。こちら側も今はあたしイコール飯田菜穂子(なほこ)と、声をかけてきた1年下の後輩だけだった。人数が多いからこういう状況は珍しい。
「なに、どうかした名木沢(なぎさわ)」
珍しいというなら、彼がこういうふうに話しかけてくるのもそうだ。
名木沢祐紀(ゆうき)。
まだ1年だけど近いうちに戦力になり得る実力の持ち主。中学高校はサッカー部でずっとレギュラーだったという話もうなずける。
そして、間違いなく学内で5本の指に入るレベルの有名人。その確実に一般人離れした容姿で。入部してきた時のサークル内の騒ぎ具合は半端じゃなかった。
自分のカッコ良さをまるで鼻にかけない性格と人当たりの良さで、男連中のやっかみは鳴りを潜めたけど(若干名の例外はどうしても居るけど)、女子の人気が高まってしまったのもまた事実。しばらくはマネージャー希望者が後を絶たず、ふるいにかけるのに苦労する日々が個人的には続いた。
今日の名木沢は、1限目が急に休講になったとかで、9時過ぎに現れた。普段そんな時間に来ているメンバーはほぼいないからこその現状と言える。ちなみにあたしは、サークル管理団体に提出する上半期の試合とか会計のデータ報告書の、最終確認をするため早く出てきた。
書類を見ている間、名木沢は荷物を置き、着替える用の別室へ行ってジャージに着替え、一人でジョギングに行って帰ってきた。最初から最後まで、見ている限りではどことなく集中しきれていない目をして。
何か悩みでもあるんだろうか、と思っていたところに声をかけられた。正直、これ以上続くようならこっちから聞いてみようか、そうしないと気になりすぎてチェックに集中できない、と思っていたところだったから内心ほっとした。しかし当然ながら、すぐに「何だろう?」という疑問が浮かんでくる。
テーブルを挟んで向かい側に座る名木沢は、心持ち斜めにしていた姿勢をこちらにまっすぐ向け直して、にわかに背筋を伸ばした。真剣な表情に、思わずこっちの背中も伸ばさなければいけない心地にさせられる。
……それにしても、本人には自覚がないのかもしれないけど、こういう目でまっすぐ見られると、個人的に特別な話じゃないと察してはいても、少なからずドキッとしてしまう。ひょっとして告白されるのかも、と勘違いしちゃう女子もいるんじゃないかと思うほどに。
もっとも、名木沢がこんな目をして見つめる女子はそう多くないだろう。あるいは一人だけ、なのかもしれないけど。
ちょっとだけ感じた寂しさ、むなしさを振り払うため、もう一度「なに?」と尋ねた。テーブルの上で手を2回ほど、組んではほどくことを繰り返してから、すっと息を吸い込んで名木沢は口を開く。
「実はその、再来週、彼女の誕生日なんですけど」
反射的にがっかりした気持ちを、強引に引き上げる。まったく、あたしも諦めが良くない。
「へえ、ってそういや、名木沢も誕生日近いんじゃない?」
「知ってるんですか」
「あたしを誰だと思ってるの。マネージャー様ですよ」
入部の際に提出される、個人情報書類のチェックと管理は基本的にマネージャーの役目だ。
「あ、そうかーー実を言うと彼女と同じ日で」
目をやや伏せて、こめかみあたりの髪を触りながら照れくさそうに名木沢は答える。うーん、と若干複雑な感情を覚えつつ、記憶をいくつかたどった。
名木沢が今の「彼女」と付き合い始めたのはわりと最近、先月の初めくらいのはずだ。その、本当に少し前までは、高校から付き合っていたという相手がいたはず。
普通より目立つ、注目を集める学生に関しては、そういうことに敏感な子たちの間で常に、相手がいるいないといった情報交換がされている。誰か一人でもSNSでつながっていれば、おのずから動向はわかる情報網ができていた。たまに、全然関わりのない学生の情報まで入ってきてまぎらわしいケースもあるけど。
ともあれそういうネットワークがあるから、名木沢の情報が出回らないはずがなかった。高校からのカノジョと別れた、と聞いたのが10月の初め頃で、その2日後ーー第一報が学内に広まりきった直後ぐらいのタイミングでーー、新しい「彼女」ができたという情報を知った。
それだけ細かく覚えているのは、個人的に一番、気にかけていた情報だったから。だから正直、第二報のショックは小さくなかった。第一報でちょっと期待を持った分だけ。
「ふーん、それで?」
まあ縁がなかったんだろうから仕方ない、と自分に言い聞かせつつ、表面上はごくごく普通に、後輩の相談に乗ってあげる先輩として振る舞う。
「……プレゼント渡すのって、どこがいいと思います? 女子ってどういうのが嬉しいもんですか」
おや、と思う。初めて女子と付き合うウブな男子みたいなことを聞くから。
「何をあげる気なの」
「えーと、腕時計を」
「だったら別に、学校で渡してもいいんじゃない? 時計なら見られても問題ないでしょ」
「いや、……彼女がたぶん、知り合いとかに見られると恥ずかしがると思うんで、できればそれ以外でと思って」
若干言いにくそうに、けれど一生懸命説明する名木沢の姿は、学内で1・2を争うモテ男子とは思えない。
「じゃ、自分ちにすれば。一人暮らしでしょ確か」
そう提案すると、名木沢はしばらく固まってしまった。一言では形容しにくい表情を浮かべて。
「ーーーーそれもちょっと。まだ呼んだことないんで」
やっと硬直から解けて、あきらかに困ったように言う様子が非常に興味深く、同時に可笑しくも感じた。だから少しからかってやりたくなった。
「ならいっそ思いっきり盛り上げちゃえば? ホテル行くとかさ」
ガタッ、ゴンと小さくない音がした。名木沢が動揺のあまり椅子から立ち上がりかけ、その拍子にテーブルの縁で膝を打った音。まともに打ち付けたからかなり痛そうだ。深くうつむいているから表情は見えないけど。
「…………飯田さん、本気で考えてくれてます?」
膝をさすりながら、やっと顔を上げた名木沢はまだ痛そうに顔をしかめつつ、同時にげんなりした様子でそう言った。からかい過ぎたかとちょっと反省する。「ひょっとして未経験?」とも聞いてみたかったけど口に出すのはやめて、代わりに「ごめん」と反省の表明をしておく。
なんだか、いろいろ予想外でおもしろいけど、驚いてもいる。
何年も付き合ったカノジョがいたのだしそれなりに女慣れしているだろう、とか勝手に思っていたけど、どうやら違うらしい。イメージよりも彼は相当、純情なようである。
地味彼女。名木沢の今の「彼女」はそういうふうに言われている。2回か3回見かけたことがあるその彼女は確かに、お世辞を言おうとしても難しいくらいに地味な印象だった。
作品名:his pure heart 作家名:まつやちかこ