新しい世界への輪廻
この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。
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私は一体何を考えているというのだろう? 最近になって新しい世界という言葉が気 になるようになってきた。新しい世界とはこの間夢に見たもので、その夢が数日間、頭の中を巡って離れないのだ。
二十歳になった私は、大学二年生になった。小学生の頃には、相手が男の子であっても関係なく、友達をたくさん作っていた。相手によって態度を変えることを嫌っていたので、好かれる人には好かれたが、嫌われる人には嫌われていたような気がする。それでも、相手によって態度を変えるようなことはしたくなかったので、それはそれでよかった。相手によって態度を変えても、自分を毛嫌いする人はいるはずなので、自分にウソをついたりなどしたくないと思った。
その思いは正解だっただろう。自分のことを一番好きだと言ってくれた友達は男の子にも女の子にもいた。数は少なかったが、それなりに嬉しかった。そんな連中とは中学二年生の頃まで、親友として変わらずに付き合うことができたので、自分の中で、
――この思いは正解だった――
と言えるのも正当性があると思っていた。
しかし、中学三年生になる頃には、次第に態度がぎこちなくなり、お互いに気まずい時間が続くようになった。会話が少なくなり一緒にいることもほとんどなくなった。いわゆる「自然消滅」のような形で、脆くも親友はいなくなってしまったのだ。
それを私は、
――受験というものが、私たちの親友関係を崩したんだ――
と考えた。
確かにその時期には思春期と言われる時期があり、お互いに会話がぎこちなくなることがあったが、それは思春期特有のもので、恥じらいや自分への自信のなさから会話がぎこちなくしていた。仕方がないことであり、それが親友関係を崩すまでのものではないと思っていた。
それが真実だったのか、それとも事実だったのか分からない。しかし、思春期というものは間違いなく存在し、友達の間に一種の楔を打ち込んだことは認めざるおえないだろうが、どこまで影響があったのか分からない。そんなことは考えたくないというのが本心だった。
親友関係を崩してしまったことで、高校に入ってからの私は、友達を作ろうとはしなかった。
――友達なんて煩わしいもの。ましてや親友なんて、最後にもたらすのは、自分に対しての疑問でしかない――
と考えた。
自分に対しての疑問は、煩わしいなどという感覚とは比べものにならない。何しろ自分に疑問を抱くのだから、一歩間違うと、自分を否定することに繋がりかねない。それが恐ろしかったのだ。
――友達がいないと、寂しいと思うんじゃないのかな?
と感じたが、実際に中学三年生から高校に入学してしばらくするまで、友達がいなくても別に辛いとは思わなかった。
――どうしてなんだろう?
中学時代には、三年生になってからは高校受験一筋だったので、余計なことを考える暇はなかった。後から思えば、
――寂しいなんて感覚は、余計なことでしかないんだわ――
と思っていたのだろう。
何とか無事に高校入学できたが、別に感動はなかった。ホッとしたという感情があるだけで、別に嬉しいとか、達成感を感じるなどという感覚はなかった。淡々とした気持ちが私を包んでいた。
――そうだ。達成感というものが欠如していたんだ――
高校受験の時にそれを感じた。
高校時代には、結局友達を作ることなく、気が付けば、進路決定を迫られていた。とりあえず大学だけでも出ておこうと、大学に入って何をしようという意識があるわけではなく、漠然と大学受験を選択した。
「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」
という言葉通り、受験できるあらゆる選択肢を駆使して、何とか今の大学に合格できたのだ。
そんなわけなので、当然達成感などあるわけもない。まわりは、
「よかったわね。合格、おめでとう」
と祝福してくれていたが、それもわざとらしく感じられ、
「ありがとうございます」
と答えながら、頭の中は完全に冷めていた。
そんな気持ちをまわりの人も分かっているのだろう。二言目が出てこない。会話が続くこともないので、明らかに祝福は社交辞令でしかない。
私はその方がありがたかった。
下手に会話が続けば、口にしたくもない言葉を口にしなければいけないだろう。判で押したようなセリフは自分の中で吐き気や嘔吐を催しかねない。そんな気持ち悪さがそのまま人との会話だと思っていることが、いつも一人でいることの理由だと感じていた。
その思いは深く感じるわけではないが、頻繁に感じていないと、自分の存在を否定してしまいそうになり、自分への正当性というよりも、存在意義のようにさえ思っていた。その感情が私の中で何かを考える力となり、何かを考えていないと、自分が消えてしまいそうに思えていたが、自分が世間に流されているという感覚はない。どちらかというと、
――自分だけの世界を楽しんでいる――
と思いたかったに違いない。
――楽しんでいるってどういうことなのかしら?
一人でいろいろ考えていると、なぜかそこに自分が存在していないように思えた。出てくるのは他人だけで、ただ、自分は目だけの存在だった。
ただ、考えているのは自分に他ならない。目だけの存在で何かを考えているという歪にも思える発想を、本人は別におかしいとは思わなかった。むしろ肉体のような余計なものがないだけに、発想が妄想として発展していく中で、何ら違和感がなく、いろいろと普段では考えることができないような発想を頭に描くことができるのだった。
私は、普段から漠然とした態度を取っている。まわりに対しての態度は実に冷めたもの。自分が相手の立場だったら、きっと、腹を立てているに違いない。
しかし、今の私はそれ以外の態度を取ることはできない。人と関わることを余計なことだと思うようになって、二度と人と関わりたくないと思ってから、その思いは変わっていない。
――そんなに強い思いなんだろうか?
自分でも疑問に思うほど、普段から頭の中は淡々としている。それが自分でもよく分からない。
――ひょっとして、何かショックなことがあって、それが尾を引いていて、他人と関わることを身体も頭も受け付けないようになってしまったんじゃないかしら?
と思うようになっていた。
ここまで淡々としている頭の中を継続できるというのは、かなりのことだと思っている。それには、頭も身体も、そのどちらも受け付けない何かが存在しなければいけないのではないかと思えてならない。それが何なのか分かるはずもなく、分かってしまうと今度は冷めてしまい、自分すら見失ってしまうのではないかと思えてきた。
――そんな風にはなりたくない――
この思いが強く頭にある。
淡々とした頭の中で、一番強い思いではないだろうか。
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私は一体何を考えているというのだろう? 最近になって新しい世界という言葉が気 になるようになってきた。新しい世界とはこの間夢に見たもので、その夢が数日間、頭の中を巡って離れないのだ。
二十歳になった私は、大学二年生になった。小学生の頃には、相手が男の子であっても関係なく、友達をたくさん作っていた。相手によって態度を変えることを嫌っていたので、好かれる人には好かれたが、嫌われる人には嫌われていたような気がする。それでも、相手によって態度を変えるようなことはしたくなかったので、それはそれでよかった。相手によって態度を変えても、自分を毛嫌いする人はいるはずなので、自分にウソをついたりなどしたくないと思った。
その思いは正解だっただろう。自分のことを一番好きだと言ってくれた友達は男の子にも女の子にもいた。数は少なかったが、それなりに嬉しかった。そんな連中とは中学二年生の頃まで、親友として変わらずに付き合うことができたので、自分の中で、
――この思いは正解だった――
と言えるのも正当性があると思っていた。
しかし、中学三年生になる頃には、次第に態度がぎこちなくなり、お互いに気まずい時間が続くようになった。会話が少なくなり一緒にいることもほとんどなくなった。いわゆる「自然消滅」のような形で、脆くも親友はいなくなってしまったのだ。
それを私は、
――受験というものが、私たちの親友関係を崩したんだ――
と考えた。
確かにその時期には思春期と言われる時期があり、お互いに会話がぎこちなくなることがあったが、それは思春期特有のもので、恥じらいや自分への自信のなさから会話がぎこちなくしていた。仕方がないことであり、それが親友関係を崩すまでのものではないと思っていた。
それが真実だったのか、それとも事実だったのか分からない。しかし、思春期というものは間違いなく存在し、友達の間に一種の楔を打ち込んだことは認めざるおえないだろうが、どこまで影響があったのか分からない。そんなことは考えたくないというのが本心だった。
親友関係を崩してしまったことで、高校に入ってからの私は、友達を作ろうとはしなかった。
――友達なんて煩わしいもの。ましてや親友なんて、最後にもたらすのは、自分に対しての疑問でしかない――
と考えた。
自分に対しての疑問は、煩わしいなどという感覚とは比べものにならない。何しろ自分に疑問を抱くのだから、一歩間違うと、自分を否定することに繋がりかねない。それが恐ろしかったのだ。
――友達がいないと、寂しいと思うんじゃないのかな?
と感じたが、実際に中学三年生から高校に入学してしばらくするまで、友達がいなくても別に辛いとは思わなかった。
――どうしてなんだろう?
中学時代には、三年生になってからは高校受験一筋だったので、余計なことを考える暇はなかった。後から思えば、
――寂しいなんて感覚は、余計なことでしかないんだわ――
と思っていたのだろう。
何とか無事に高校入学できたが、別に感動はなかった。ホッとしたという感情があるだけで、別に嬉しいとか、達成感を感じるなどという感覚はなかった。淡々とした気持ちが私を包んでいた。
――そうだ。達成感というものが欠如していたんだ――
高校受験の時にそれを感じた。
高校時代には、結局友達を作ることなく、気が付けば、進路決定を迫られていた。とりあえず大学だけでも出ておこうと、大学に入って何をしようという意識があるわけではなく、漠然と大学受験を選択した。
「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」
という言葉通り、受験できるあらゆる選択肢を駆使して、何とか今の大学に合格できたのだ。
そんなわけなので、当然達成感などあるわけもない。まわりは、
「よかったわね。合格、おめでとう」
と祝福してくれていたが、それもわざとらしく感じられ、
「ありがとうございます」
と答えながら、頭の中は完全に冷めていた。
そんな気持ちをまわりの人も分かっているのだろう。二言目が出てこない。会話が続くこともないので、明らかに祝福は社交辞令でしかない。
私はその方がありがたかった。
下手に会話が続けば、口にしたくもない言葉を口にしなければいけないだろう。判で押したようなセリフは自分の中で吐き気や嘔吐を催しかねない。そんな気持ち悪さがそのまま人との会話だと思っていることが、いつも一人でいることの理由だと感じていた。
その思いは深く感じるわけではないが、頻繁に感じていないと、自分の存在を否定してしまいそうになり、自分への正当性というよりも、存在意義のようにさえ思っていた。その感情が私の中で何かを考える力となり、何かを考えていないと、自分が消えてしまいそうに思えていたが、自分が世間に流されているという感覚はない。どちらかというと、
――自分だけの世界を楽しんでいる――
と思いたかったに違いない。
――楽しんでいるってどういうことなのかしら?
一人でいろいろ考えていると、なぜかそこに自分が存在していないように思えた。出てくるのは他人だけで、ただ、自分は目だけの存在だった。
ただ、考えているのは自分に他ならない。目だけの存在で何かを考えているという歪にも思える発想を、本人は別におかしいとは思わなかった。むしろ肉体のような余計なものがないだけに、発想が妄想として発展していく中で、何ら違和感がなく、いろいろと普段では考えることができないような発想を頭に描くことができるのだった。
私は、普段から漠然とした態度を取っている。まわりに対しての態度は実に冷めたもの。自分が相手の立場だったら、きっと、腹を立てているに違いない。
しかし、今の私はそれ以外の態度を取ることはできない。人と関わることを余計なことだと思うようになって、二度と人と関わりたくないと思ってから、その思いは変わっていない。
――そんなに強い思いなんだろうか?
自分でも疑問に思うほど、普段から頭の中は淡々としている。それが自分でもよく分からない。
――ひょっとして、何かショックなことがあって、それが尾を引いていて、他人と関わることを身体も頭も受け付けないようになってしまったんじゃないかしら?
と思うようになっていた。
ここまで淡々としている頭の中を継続できるというのは、かなりのことだと思っている。それには、頭も身体も、そのどちらも受け付けない何かが存在しなければいけないのではないかと思えてならない。それが何なのか分かるはずもなく、分かってしまうと今度は冷めてしまい、自分すら見失ってしまうのではないかと思えてきた。
――そんな風にはなりたくない――
この思いが強く頭にある。
淡々とした頭の中で、一番強い思いではないだろうか。