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馬鹿じゃできない利口じゃやらない(掌編集~今月のイラスト~)

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 二つ目の研究会で演じたのは『三枚起請』、しばらくぶりの演目、しかも充分にさらって行かなかったので遊女・喜瀬川の悪女振りを鮮やかに描けなかった、しかし、どことなく間が抜けている喜瀬川を客は随分と喜んだ……それがどうにも腑に落ちなかったのだ。
 男は聴き上手だった、幸恵の言葉に相槌を打ったり、時には疑問を挟んだりしながら辛抱強く酔っ払った幸恵の話を聴いてくれる、幸恵はそれに釣られる様に胸の中のありったけを男に投げかけた……『しくじったほうが受けると言うのはどういうわけ? あたしの芸をバカにしてるわけ? 見てらっしゃい、この次は稀代の悪女・喜瀬川を聴かせてあげるから』
 はっきりした記憶はないが、なんとなくそんな事を話して男に絡んだような気がする
 
 翌朝目ざめてみると、ちゃんとワンルームマンションの自分の部屋のベッドの上。
 どうやって帰って来たのか思い出せないが、着衣は夕べのままだが上着だけはきちんとハンガーに掛けてあったところを見ると、一人で帰って来たわけではなさそうだ。
 誰かに送ってもらったとすれば……昨日会ったばかりのあの男しか考えられない。

 翌日、幸恵は夕べのバーに出かけて行った。
 醜態を晒したのだから気恥ずかしさはある、だが、きちんと礼も言わないでいてはだらしのない女だと思われても仕方がない、そちらの方がより嫌だったのだ。
 果たして、男はまたその店に居た。
「夕べはすみませんでした、随分絡んだみたいで……もしかして送っていただきました?」
「ああ、いいんですよ、気にしないで下さい」
 間違いなかった、酔いつぶれて見知らぬ男に送ってもらったのだ。
 幸恵は恥ずかしさのあまり俯いた、そんな事は今まで一度だってなかった、逆に酔いつぶれてしまった友達を送ってやった事はあるが、随分と見苦しいと感じたものだ。
「お恥ずかしい所を……」
「いやぁ、むしろとても可愛らしかったですよ、あなたをベッドに横たえた時、自分を抑えるのが大変だった位で」
 男は屈託のない笑顔を見せる……幸恵をまた別の恥ずかしさが襲う。
 酒に酔って乱れた姿が可愛らしいだなんて……。
 その瞬間、幸恵の中に『恋』が芽生えた。

 幸恵は既に三十代、これまでにも恋はいくつか経験している。
 だが、身を焦がすような恋は未経験だ、何事もしっかり計算してそつなく立ち廻る幸恵にとって、恋心も数多ある感情のひとつでしかなかった、全ての感情を飲み込んでしまうような恋があるなどとは思いもしなかった。
 男の名は田中一郎、『単純すぎて偽名みたいだろう?』と笑いながら免許証を見せてくれた。
 幸恵は恋に、一郎に溺れた。
 時間が許す限り一郎と逢い、語らい、肌を重ねあった。
 
 芸の方はと言えば、一郎と恋に落ちてしばらくの間は『なんだか艶が出てきた』と好評だったが、高座に上がっている最中でも一郎の事が頭から離れなくなると、噺に集中できなくなりおざなりな高座が続くようになった。
『燕吉はどうしちまったんだ?』などと言われているのは知っていたが、自分ではどうにもならなかった。

 一郎が幸恵の前から突然姿を消したのは、付き合い始めて八ヶ月が経った頃の事だった。
 急に連絡が取れなくなって、幸恵はうろたえ、苦しんだ。
 そして、次に一郎の姿を目にしたのはワイドショーのテレビ画面の中だった。
 粘り強い操作の末に逮捕された腕利きの結婚詐欺、それが一郎……『偽名みたいだろう?』と笑った名前も本当に偽名だった。
 自分が恋焦がれた男の正体を知って、幸恵は愕然とした。
 自分に関して言えば金銭を貢がされたというようなこともなく、幸恵の方から結婚をほのめかしても、一郎はむしろその話題を避けるかのようだったのに……。
 しかし、ワイドショーが暴き出した一郎の手口、それは結婚するまでは徹底的に正体を隠すと言うもの、既にその手口で数回の詐欺を繰り返していた。
 それでも幸恵は諦めきれない。
 自分が噺家である事は勿論伝えた、二つ目では大した収入もないことも知っている、真打になれたとしてもすぐに収入が飛躍的に増えると言うこともない事を話した覚えもある。
第一、 それなりに世間に名前と顔を知られている、結婚詐欺の対象としてはあまり……。
そこまで考えた所で、幸恵はくつくつと笑い出した。
(あたしは何を考えてるんだろう、あの人は詐欺師だった、被害に遭う前に捕まって良かった、それだけの事じゃない……ああ、あたしって自分で思っていたほど利口じゃないんだなぁ、それに、女だからって言われるのが嫌で突っ張って来たけど、やっぱりあたしは女なんだなぁ……)
 そう考えると、この十年間かい続けてきた突っ張り棒が外れたような心地がする。
(なんだか……せいせいしちゃった……)
 そう思うのだが、涙がとめどなく零れ落ちるのをどうにも出来なかった……。


 それからと言うもの、幸恵、いや燕吉は以前のように稽古に身を入れるようになった。
 しばらく身が入らない時期があったものの、元々は卓越した技量の持ち主、すぐに元通りの力を取り戻した。
 それだけではない、以前の燕吉はどこかぎすぎすとした堅さがあったのだが、すっかり丸みを帯びて来て、それに連れて噺も丸みを帯びてきた、そして、客の受けも上々だ。
「燕吉は一皮剥けたな、今度こそ真を打たせたらどうだ?」
 再びそんな声が上がるようになった。


「……ここらの烏をみんな殺して、あたしゃ朝寝がしてみたいのさ」
 燕吉は師匠の前で『三枚起請』を演じている、師匠から呼び出されて、語るように言われたのだ。
「うん……良くなった、何処が良くなったのかわかるか?」
「はい……以前は完璧な悪女を演じようとしてました、でも喜瀬川はそこまで計算高くないですし、そこまで性根が悪いわけでもないですから……」
「そうだ、その通りだ、落語に出てくる人物なんて一人として完璧な奴ぁいねぇよ、どこか抜けてるか全部抜けてるかどっちかだ、お前ぇは最初から上手かったよ、だけどよ、描き出す人物が全部一面しか持ってなかった、人間なんて二面、三面を持ってるのが当たり前ぇだ、ことさら落語に出てくる人物はな……噺家もそうだ、完璧な噺家なんざ面白味がねぇやな、昔から言うだろう?」
「あ、あれですか?」
「そうだよ、いっぺんに言ってみるか?」
「「 馬鹿じゃできない利口じゃやらない 」」
 師匠と弟子は声を合わせ、そして笑い合った。
「お前ぇ、真打になりな」
「はい」
「なに、お前ぇを真打にって噺はとっくに出てた、俺だけが首を縦に振らなかっただけだ、今までは大看板と呼ばれる位になった女流噺家はいねぇ、だけどお前ぇならなれると俺ぁ思ってるんだ、ひとつだけ足りなかったものをお前ぇは見つけた、もう俺が教せぇることもなくなったよ」
「ありがとうございます……で、名前なんですが」
「おう、そうだな、新しい名前をつけねぇといけねぇな……と言ってもまだ何も考げぇてねぇんだが……」
「もし構わなければ、ひらがなのつばに女と書いて、『つば女』と」
「うん、そいつは良い名前だな」
 師匠はその名を考えた幸恵の心中を察して、満面の笑みを浮かべた。