短編集14(過去作品)
もう一人の自分
もう一人の自分
秀樹が泰代と付き合い始めてどれくらいの月日が経ったのだろう?
考えてみると、今までそんなことをかんじたこともない。それだけ自然な付き合いだと思っていた。相手を意識し始めた時からが付き合いなのか、それとも告白してからが付き合いなのか、または身体を重ねてからが付き合いなのかによって違うだろうが、その時々で、違った思いが存在する。
泰代は秀樹にとって実に従順な女性であった。それだけになかなか告白ができなかったのも事実で、それを泰代がどう思っていたか、少なくとも待ちわびていたことには違いなかった。その証拠に告白して彼女との交際が始まってすぐに、キスをしたような気がする。
「私、寂しかったの」
この言葉がきっかけだったのは覚えているが、それ以外はまったく記憶に残っていない。それも覚えていないのではなく、記憶の奥に封印されているだろうことは分かっている。寂しかったという言葉は秀樹の男としての気持ちを誘発した。唇が気になって仕方がなく、思わず重ねていたような感じだっただろう。
「秀樹さん……」
泰代の唇からかすかに漏れた声が、吐息に変わっていた。
「泰代……」
秀樹の返す言葉も吐息交じりである。
唇が擦れ合う音がまわりに響き、湿気を帯びた重たい空気を感じた秀樹だったが、何とも独特な空気で淫靡さを含んでいたことはいうまでもない。
唇が微妙に震えている。求め合っての口づけなのに、お互いに緊張からか震えているのだ。さすがにその日はそれ以上のことはなかった。しかし、翌日から何となくぎこちなくなったのを感じていたが、きっと昨夜から緊張の継続だったに違いない。数日会わないだけで気になったのか、泰代から電話があった。
「元気にしてた?」
なるべく平静を装っていたが、緊張は受話器越しにも感じられる。受話器越しではいつもより少しだけ声のトーンが低くなることを知っていた。しかし、さらに低い声は震えていて、いつもの泰代の声ではない。明らかに声が和音を奏でているようで、声の低さを示していた。
「ああ、元気だったよ。会いたいね」
最初にいきなり切り出すのは秀樹の性格から来るものだろう。いつも言いたいことを先に言って、後からその理由を補足する言い方、それが秀樹の性格であった。泰代にもそれが分かっているのか、会話に違和感がない。しかし、一度指摘されたことがあった。
「あなたは結論から先にいうのね」
「ああ、分かりやすいだろうと思って」
そういった時の泰代の反応は、秀樹にとってみれば、実に理解しがたいものだった。
その日の泰代も秀樹にとって理解に苦しんだ。それは泰代にとっても同じだろう。口づけをしてからしばらく遠ざかっていた二人、それが暗黙の了解で、どちらからか連絡を取ることでもう一度盛り上がれるのではないかという半信半疑なところがあったからだ。
しかしそれは取り越し苦労だった。泰代の緊張は複雑なもので、久しぶりで何を話していいのか分からないということと、口づけの日のことを思い出して恥ずかしがっているという女心も働いているようだ。
「ええ、会いたいわ。だからこうやってお電話を差し上げているのよ」
泰代の言葉には、どこかお嬢様っぽいところがある。そこが惹かれた理由の一つなのだが、告白してからの態度にもお嬢様っぽさが見えてくるような気がしてきた。
秀樹にとっては嬉しい限りである。自分に従順で、あまり逆らわない女性を探していたこともあって、そんな理想の女性として現われた泰代に一目惚れしたのも無理のないことだった。それだけに秀樹は泰代のことをほとんど何も知らない。いろいろ聞いて嫌われるのを警戒しているからだ。怖がりな秀樹だが、そんなところとは裏腹に、結論を先に言う性格が泰代のようなお嬢様っぽい性格の女性には嬉しかったに違いない。
秀樹は泰代と知り合ったことを運命のように感じている。
今までは一目惚れなどしたことがなかった。相手の顔や話しぶりから性格を判断して、それで好きになる方だったのだ。一目惚れも似たようなものかも知れないが、それ以上に、見た瞬間に電流が走ったような刺激を、感じたことを秀樹は今さらながらのように思い出すことができる。
何も知らないことに抵抗がないわけではない。本当は過去なんてどうでもいいと思っている反面、今があるのも過去があるからだと思っている矛盾したところがあるのだ。それが普段であればいいのだが、こと恋愛、特に泰代のこととなると、自分でも余計に矛盾した気持ちに陥る。
会いたいと言った泰代の言葉、秀樹は素直に嬉しかった。
泰代はお嬢様っぽい喋り方をするわりには、庶民的なところがあった。喫茶店も品のあるところを知っているのだが、それほど高級なところではない。さりげなさが売りともいうべき喫茶店で、自然に溢れ出てくる品のよさが、来る者の気持ちをゴージャスにしてくれるのだろう。
ゴージャスというのはお金が掛かっているからゴージャスというわけではない。質素で色の華やかでない方が高級感溢れているものだ。白やアイボリーに少し青や赤を使うだけで、原色が映える。そんな雰囲気が好きなのだろう。
何と言っても泰代の性格からなのだろうが、馴染みのお店の多いことにはビックリさせられた。
「会社の近くにも馴染みのお店があったりするのよ」
「友達同士でランチとかする時のためかい?」
「いいえ、そういうところは一人で行くの。一人で行くことで気持ちにゆとりを持てることが優雅になれる秘訣なのよ」
「それはいいことだね」
「だからあまり馴染みの店に他の人を連れていくことはないんですの」
「自分の城なんだね?」
「ええ、でもあなただけは別よ」
そういって含み笑いを浮かべる。表情から優雅さが滲み出て、気持ちの余裕を感じ取ることができる。
泰代に感じる優雅さは、たまに秀樹を寂しくさせることがある。会うたびに少しずつでも近づいている距離に嬉しさを隠せない秀樹であったが、どうしても馴染みの店には立ち入れない自分を感じてしまう。しかしその日は馴染みの店の一つに案内してくれるというのだ。これは秀樹を有頂天にさせた。
楽しそうな泰代の表情に少しだけ翳りがあることに気付いていたのだろうか?
後になって考えればハッキリと分からない。ただ、その時は、
――何か変だな――
と思いながらも、それ以上追求しなかった自分がいる。有頂天になっている秀樹に、それ以上の追求は無駄に思えたからだ。
泰代が連れていってくれた店はショットバーのようなお店である。スナックやバーが密集する雑居ビルの一角にその店はあった。数人乗りの小さなエレベーターに乗り、五階を押す。ゆっくりと動き始めたエレベーターの中は、空気が薄いのか、少し耳がツンとしているのを感じた。
エレベーターを降りて、すぐ目の前に紫を基調にした看板が現われ、艶やかに見えた。帳の下りた夜には紫でも十分艶やかに見えるのだ。
「バー サンクチュアリ」
と書かれた看板を横目に見ながら、薄暗い店内に入った。テーブル席もあるのだが、泰代が一直線に向ったのはカウンターで、秀樹も追うようにくっついていった。
作品名:短編集14(過去作品) 作家名:森本晃次