Hail mary pass
弥生が勝馬に言い、鍵を手に取った。まだその方が安心だ。弥生が駆け寄って来るのが見えたが、和馬はそれを無視して、誰にも挨拶することなくハイラックスに乗り込み、繁華街から離れた。次は向山を拾いにいかなければならない。
なんてないはずだった一日が突然、牙を剥くときがある。九年前にホームレスと対峙したときのことを思い出した和馬は、悪い直感を頭から振り払おうとした。ハンドルを持つ手が小刻みに震えた。どうして、今こんなことを思い出すのか。向山の住む古いアパート。階段を駆け上がり、二○五の呼び鈴を押す。中でビニール袋を踏んだような音がして、和馬は強くノックした。廊下を裸足で歩く音。そして、ドアが開いた。
「あっ、灰野のお兄さん、どうもっす」
向山はいつも、和馬のことをそう呼ぶ。目が充血していて、さっきまで眠っていたのは明らかだった。
「起こしてすまんな。留守電聞いたか?」
「はっ……はい、一時ですよね。すみません寝てて。あの、下だけ着替えますんで」
「おう、ゆっくりやれや」
和馬はそう言って、後ろ手にドアを閉めた。足元がさらさらと滑り、違和感を感じた和馬は視線を落とした。乾いてパラパラになった泥が、玄関に散っていた。隅には、無造作に畳まれた長靴。和馬は言った。
「お前、どっか行ってたんか?」
「いえ、寝てました」
部屋の奥から、間の抜けた声が返ってきた。しばらくして、普段着に着替えた向山が廊下に現れ、和馬は先に表へ出た。向山と一緒に一階まで下りて、ハイラックスの運転席に乗り込んだ。
「失礼します」
向山がそう言いながら助手席に乗り込んだ。和馬はエンジンをかけてすぐに、ラジオからテープに切り替えた。イーグルスの『呪われた夜』が途中から再生され、和馬がさっきラジオで聞いたことを上書きしようとした。
犯人は独居老人を狙う。手際がよく、現場には頭だけが残されている。待ち合わせ場所へハイラックスを走らせながら、まだ疲れが残るように舟を漕ぎ始めた向山の横顔を、和馬は一瞬だけ見た。泥だらけの長靴。八十六年は平和な年で、一人も殺さなかった。その年に、あの殺しが始まったのだ。理由は簡単。おそらくそいつは、人を殺すのが病み付きになったのだ。それに、自分が一番憎い相手を狙うほうが、やりがいがあるだろう。独居老人を狙うのは、祖父から虐待を受けていた男だから。誰にも言うつもりはなかったが、和馬は確信して、ついに眠った向山の横顔を見ながら、頭の中で呟いた。
『犯人はお前だな』
作品名:Hail mary pass 作家名:オオサカタロウ