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貝殻拾い

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 小さな小瓶に詰められた砂のようなものをぼんやりと眺めながら、私は港に置かれたベンチに座っていた。そのベンチは何とも言えないほど錆びていて、剥がれた塗装が薄い膜を持ち、その鋭さから服に刺さり、服を破いてしまうような気さえする。小瓶を持っていなかったなら、何度も座り方を変え、その時にコートやズボンに穴が開いていたかもしれない。それほどの集中力をこの小瓶は必要としていた。
 小瓶にはラベルはなく、透明なガラス瓶に蓋がしてあるだけの簡素なもので、底や、蓋に何か書いてないかと何度も回し見したが、やはり何も書かれていない。やけに透明なガラスの様子から、最近作られた大量生産品だと分かるが、その特徴を持たない小瓶に染み込むように付着した私の指紋だけがやけに独自性をもったかのように見えるのが、可笑しく思えた。

 カモメだろうか、鳥が、停泊している船にいた。動く気配はないが、死んだような体つきでもなく、何かを待っているかのような様相だった。冬の厳しい海風に耐えるためにカモメは羽を分厚くさせているのか、暖かそうに見え、自分の黒いコートの薄さがよくわかった。この気候に慣れていないものだ、とカモメが私に見せている。
 カモメがいる船は停泊している。しかし、錆びつき、動きそうにもなく、周りには他の船は見当たらない。一艘の寂しい船に、一羽のカモメがいる。そのカモメが少しだけ首を動かし、そのまま飛び去った。

 誰もいなくなった。カモメすらいなくなった港で、私は小瓶を見ている。手のひらに収まるほど小さな小瓶。その中の砂のようなものは煌びやかに昼間時の太陽で染色されている。夕焼けが海岸線の向こうからやってくるのは、もう少し後のことだろう。そのころまでには最寄りの真函駅まで行かなければならない。

 コートのポケットに縒れた紙切れがある。ここまで来るのに電車で三時間かかり、その間に何度も何度も復読した。一度目は文字を流し、二度目は文字を分解しながら意味を理解した。三度目はもう一度文字を流し読み、四度目に意味から連想される記憶を理解した。そうやって何度も繰り返した記憶の掘り起こし作業によってこの小瓶に詰められた思いの重さを理解したのだ。
 紙切れは手紙の体裁をなしていて、丁寧に綴られた文字たちは、流星群のように美しい一連となっていた。その文字の選び方は、文字の美しさ以上にこの手紙を手紙らしくさせていた。個性のある、多少汚い文字の方が、個人間の手紙には最適なようにも思えるが、意外にも同じ方向に向かって流れる流星群のような文字が映えて見えた。
 

 三年間、という時間が短いものか。区切られた時間の中で流星群をみただろうか。いや、見なかったかもしれない。そういう基準を当てはめると、三年間はとても短い時間なのだろう。
 しかし、手紙の送り主とかかわった三年間というものは、流星群を基準とする時間よりも圧倒的に長いものであった。その時間は、長く、濃いものだったのだ。記憶は濃淡が激しいもので、私の記憶の中で、そこだけが赤潮のように色濃く残っている。しかし、赤潮のように、周りとの異端さ故、濃く映っているということではなく、周りよりと同じような表層を持っているのに、その下で、見えないところが荒ぶり、その見えない荒ぶりを私だけが敏感に知覚し、特殊な記憶として収納していたのだ。




 記憶をこじ開ける
 そのための道具を探して
 記憶を回収する
 そのための麻袋を探して
 見えない橋を一歩一歩進んだ
 思い込みが消えて
 底が姿を現したなら
 道具探しの旅が終わる
 終わりの時
 落下の瞬間
 それまでの足跡を下から見れば
 
 
 なんとも滑稽な旅路だろうか
 
 
 
 
 小瓶と手紙は突然、郵送され、私は酒に酔った状態でそれを郵便受けから取り出した。昨晩、珍しく降った雪が郵便受けを開けた早朝には溶けだしていた。車のタイヤ痕がうっすらと残った雪の層を押し固め、その濁った色に肝臓が刺激され、芝生に降り積もった、まだ誰にも踏まれていない新雪が煌びやかに太陽光を反射させ、その光に胃が刺激される。引っ張り出した大きめの封筒を破り、中を見る。ちょうど開いた封筒を見ると、そこに溜まった異物たちを吐き出してしまおうかという気になったが、贈り物を早速不要なものに変化させるのもどうかと思い、とりあえず中身を確認しながら奥のエレベーターに向かった。三階に向かうためにボタンを押し、エレベーターを待つ。雑な赤い数字が点灯し、5という数字を出した。ゆっくりと機械音が広がり始め、箱が降りてきた。その様子を見ながら私は同封されていた小瓶を掴んだのだった。
 
 
 
 それからは早かった。酔いは一瞬で忘れ、すぐに服を着替え、一万円札を握って駅へと急いだ。始発はもう出ている。路面が凍結し、滑りやすい中、私は全力に近い走りを継続して、駅に急いだ。



 そうして港にいる。封筒は酒の匂いが充満した家に置いてきてしまったが、紙切れと化した手紙の最後に送り主の名前が書かれている。
  『  より』
 その名前を忘れることはなかった。例え酒で記憶が消えようと、その名前だけは焼き印のように脳内に張り付き、懐かしさからくる哀愁と、後悔からくる嫌悪を同時に抱くのだ。そのどちらか一辺倒に持っていくこともできず、軋むように捻れるその名前から現れる諸症状を抑えるために、考えないようにした。記憶から抹消することはできなくとも、薄めることはできた。

 逆に、薄めた名前とそれに付随する記憶が再度色濃く現れた時の吐き気は言いようもなかった。胃酸を全て吐き出してもまだ、吐き足りない。脳内の神経細胞を全て引きちぎり、痛覚という感覚を消滅させることでしか完治しないように思えた。

 そういうことを繰り返しながら、それでも生きてきた。そして港にいる。


 なぜ、生きているのか。このフレーズを真剣に考えるようになったのも、あの名前がきっかけだ。そして、この問いの答えが、目の前の紙切れに書き記されている。そのために、私は港にきた。

 手紙の序文は、懐かしい言葉から始まった。薄めていた記憶は、その一言で一気に還元され、元通りの色に戻った。
 手紙には会わなくなってからの五年間がやけに簡潔に、そして明瞭に記されていた。数回の復読で、理解できたあの人の生涯の一部。
 五年間という節目に、手紙を寄越したというわけではなく、最後の年になりそうだから、と書かれていた。文字の配列から漂っていた遺書のような雰囲気に合点が行き、私は電車の中でただ、呼吸をしていた。






 私はベンチから立ち上がり、カモメがいた船まで歩いた。濁った海がコンクリートで囲まれた境界線を弱く叩く。私は小瓶をもう一度よく観察し、蓋を開けた。指をいれ、砂のようなものを数粒、触った。温度など感じるはずもなく、ザラっとした感触だけが伝わってきた。海風に含まれた水分がその砂のようなものに重さを与え、風に吹かれることなく、指に付着している。小瓶に鼻を近づけると嗅いだことのない匂いがした。砂のようなものが、何度も嗅いだものと同義であるにも関わらず、匂いはもうここにはいないようだった。
作品名:貝殻拾い 作家名:晴(ハル)