カケイケンの由紀
やがてドアは開かれ憔悴しきった様子の若い男性が現われ、容疑者「お待ちしていました、申し訳ありませんでしたと言って、その場に泣き崩れたのであった」・・・容疑者はすぐに身柄を拘束されてその後、警視庁庁舎2階奥の取調室で、捜査官による取り調べを受け黙秘する事もなく、淡々と供述しているとの事であった。立花 学「何か、思い余っての犯行だったのでしょうか」上司「いや、そうではないらしいようだが、元々被害者と彼とはスナックのママと客との関係だったらしいが、同じ猫好きと言う事で、それが縁で彼女のマンションに同居と言うか、転がり込んだと言う事らしい」立花 学「年齢差は有っても、同じ共通の趣味が合えば意気投合するものなのですかね」上司「同じ一生を生きるのに、年齢だけで一括りにするのも、つまらんだろう」上司「現にいま将棋の世界でも、中学生と現役最高齢の棋士とが、同じ土俵で戦っているじゃないか」立花 学「なるほど」上司「犯人は、昼間はアルバイトをしながら、彼女の送り迎えをしていたそうだが、水商売の常と言うか、常連客に言い寄られると、なかなか断りきれずに帰りが遅くなる、そうすると、彼はす返りしてマンションで悶々とするしかあるまい」上司「犯行に至った経緯も、まあその辺りが伏線になっていたのだろうが、とにかくそういう事らしい、いくら好きでも、愛情が愛憎に変わる潮目というものがあると言うからな、立花君もなかなか端正な顔立ちで、もてるだろうから気を付けておかないとな」立花 学「いえ、自分は今まであまりそのような記憶は有りませんが」上司「傍から見ても持てそうなのに、もてないと言うのは、つまり押しの一手に欠けると言う事だな、将棋でいえば決め手に欠けると言う事になる、これでは君に思いを寄せている人が仮にいたとしても、そのうち諦めてしまうよ」立花 学「・・・そういうものですか」上司「ああ、そういうものだ」立花 学「・・・でもこの事件は、犯人逮捕までわずか2週間足らずでの快挙でしたね」上司「君たちのチームワークも素晴らしかったが、それよりなにより、科警研の鑑定技術が見事な決め手だったと言う事だ、手駒がそろえば詰め上がりは、おのずと見えてくるからな、その立花君の知り合いの技官の方には、大変お世話になりましたと丁寧にお伝えしてくれないか」立花 学「はい、承知しました」上司「彼らの日頃からの地道な研究が、我々現場で働く者達を後ろから支えてくれていると思うと、実に心強くて、有り難い事だな」立花 学「確かにそうですね」・・・やがて、容疑者は検察庁へと送致され、検事による取り調べが行われることになったのであった。・・・立花 学は数日後、事件解決の報告とお礼を兼ねて、前日の由紀と交わした約束の時間通りに、赤ワインとそれにブーケをたずさえ彼女のマンションを訪れたのであった。若い独身女性の部屋を訪れること自体が初めての経験であり、手に汗にぎるものだったのだが、やや緊張しながらもインターホーンを押すと、直ぐにドアの奥から彼女のもの柔らかな声がしてドアが開き、輝くような明るい顔をのぞかせたのであった。「由紀さん、この度はどうもと言うか実に有りがたいと言うか、そのー、上司も大変感謝していると、それで科警研の方々にもその事を必ずお伝えしておいてくれと言われて、中村由紀「有難う学さん、山城技官にも必ずお伝え致します」立花 学「・・・それにしても、独身女性宅を訪問すると言う事は、まさになんと言うか、容疑者宅に踏み込む時以上に緊張するものだね。」中村由紀「まあっ、学さんったら、・・・じゃあ捜索令状はお持ちいただいたのかしら」と、悪ふざけに乗った様に頬を膨らませながら冷たく言うと、立花 学「いやっ、じつは捜索令状の代わりに、これを」と言って赤ワインと可憐なブーケを差し出したのであった。
それを見た由紀は目を輝かせながら、中村由紀「私、このワインずっと以前から気になっていたのよ、イタリア産のカサーヴェッキオ モンテプルチャーノ ダブルッツォと言うのよね、通常1本の葡萄樹に8房の実をつけるところを、わずか2房に制限して造られた色も濃く、香りも際立った驚くほどのビンテージワインだと聞いていたの、有難う学さん、さあ中に入ってらして」そして学は何か次元の違う空間をまたぐようにして、彼女の部屋へ一歩踏み出したのであった。そして呟くように、立花 学「ああ、やはり上司の助言を聞いておいてよかった、一つ、独身女性宅を訪問する際は、容姿を整え清潔にして、顔も丹念に刃を当てておくこと、二つ、下着はもちろんの事、靴下も新品を掃いていくべし、その三、彼女の好きなものを必ず持参すべし、その4、あとは押しの一手あるのみか」中村由紀「えっ、学さん何かおっしゃって」と、キッチン奥で紅茶を入れていた由紀から、声が掛ると、立花 学「いや、その・・・独身女性の住まいと言うものは、こんなにも華やかでいい香りがするものかと思って」と言いながら、窓の方へ視線を移すと、バルコニーから差し込む強い光の束をレースのカーテンが温かく受け止め、まるで真珠のような優美な光に変えながら、神々しく部屋を照らしていたのであった。そしてその光を浴びている窓際に置かれた椅子を見ると、なんとあのロシアンブルーが、身じろぎもせずに、こちらをじっと見つめていたのである。立花 学「えっ ! どうしたの、この猫」そこへ紅茶とクッキーを持ってリビングに現われた由紀は、中村由紀「なかなか引き取り手がないらしいの、それで」立花 学「・・・そうだね、事故物件と言うか、いわく憑きだからね」中村由紀「まぁひどいわ、いわく憑きだなんて、失礼しちゃうわね、ねえマナブ君」立花 学「えっ、ロッシュじゃなかったの」中村由紀「そうよ、でもうちの子になったのだから、名前を変えたの」立花 学「しかし、その名前はちょっと・・・」中村由紀「いいの、この子は年下なのだからマナブ君なの、ねえ、マナブ君」と言って、膝に抱き抱えながら頬を摺り寄せ両手で優しく抱き締めたのであった。
それを見た学は、ある確信をもち上司の助言である4番目の一手を今日は差し控え、伝家の宝刀として温存する事にしたのであった。それにしても脳裏に浮かんだある一文が、気になったのであるが、それは科警研の報告書にもあったロシアンブルーが、「飼い主と認めた相手には献身的な愛情を持つが、人見知りが激しく神経質な面がある」との事柄であった。立花 学「つぎに、訪問する折には彼女へのプレゼントとそれに、マナブ君へのお土産も必ず用意しておかないと、人見知りされたら困るから」やがて日も暮れ、楽しいひと時を過ごした学は、帰宅の途に就いたのであった。
それから数か月ののち、学と由紀は以前訪れた事のあるレストランに再び足を運んだのであった。すぐにソムリエがワインリストを手にやって来ると、学は落ち着いた様子で由紀の好みのミディアムボディのワインを静かに注文したのである。