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カケイケンの由紀

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焼き加減は、由紀はミディアムレアー、僕はミディアムと、本当はもう少し焼いてもらいたかったのだが、由紀の手前見栄を張ったのである。こうしてみると、彼女も肉食系女子なのかなと思ったりもしたのだが、あの難関の科警研受験を勝ち抜く辺りの強さのみなもとは、まさに食に有りかと思ったものである。
立花 学「メールをもらった時分は随分と驚いたよ。科警研を目指していたとは、と思って。由紀ちゃん、いや、由紀さんは大手の製薬会社か、化粧品会社の研究部門を目指しているものとばかり思っていたものだから」立花 学「でもやっぱり高邁な志を持ち、学問を愛し、学問に愛された人なのだなと、心から思って」それを聞いた由紀は、しなやかな熟(こな)しでフィレ肉を切り分けていた指先を僅かに震わせながら、視線を手元に落とすかのように、「私・・学・・門は好きよ、大好き !・・でも・・学・・門から愛されているとは思えないわ」と、消え入りそうに呟き、立花 学「急にどうしちゃったの、由紀ちゃん」との声に、直ぐに我に返ったのか由紀は、ためらいがちに、中村由紀「えっ、うん、・・いや、その、私、いま何か言った !」と、小声で返したのである。
立花 学「ううん、その・・学問が・・・どうとか」中村由紀「・・・そうよね、今まで以上に、・・・学問を愛し、・・・学問に愛されなくてはね」と、明るく言葉を返したのであった。やがて食事もすみ、デザートが運ばれて来たのだが、その見事な造形の美にこれまた息をのんでしまった。
さすがに、ミシュランガイドにも登場するような店ともなると、最後まで完璧である。バカラのデザートプレートの上には、幼い少女が野辺に花を摘みに行く折の愛らしい花かごを、甘いタルト生地で織り上げ焼かれていたのである。
その手のひらに乗るほどのかごの中には、濃厚なカスタードクリームを敷き、その上に白ワイン煮込ラ・フランスと、ストロベリーのソルベが、ミントの葉と共に添えられていた。立花 学「このかごも食べていいんだよね、それとも返さなくてはいけないの」中村由紀「まあ、学さんったら、おもしろい人」と言ってクスッと笑みをこぼした。立花 学「そういえば、何かの本に日本人の謙虚なさまを言い表した言葉に(食は飾らずを持って良しとすべし) と書かれていた事を思い出したのだけれども、でも食もここまで行くとまさに芸術だね、美味なる感動は、消え入る事もなく永遠に残るからね。そして、この至福のひと時を由紀さんと共に過ごすことが出来てとても幸せだよ」中村由紀「ありがとう学さん、私もすごく幸せ、・・この幸せがこれからもずっと続きますように」と言って、透き通るような手を慎ましやかに合わせたのである。立花 学「どうしたの」中村由紀「・・・私の・・おまじないなの、気にしないで」と言って微笑んだのであった。
やがて彼女は科警研(科学警察研究所)にも程近い、千葉県柏市の一人住まいのマンションへと戻るため、東京メトロ千代田線へ向かい、その後ろ姿を目で追いながら最後まで見届けた後、優美なさまにさらに憂いを帯びた由紀の可憐なしぐさを思い出すたびに、心の臓は波打ち胸が熱くなるような思いを覚えたのであった。その後、住みなれた我が家へと向かったのである。独り暮らしに強いあこがれを抱いていた僕だったのだが、姉達二人が遠くへ嫁ぎ出し、にわかに心細くなった祖母と母親につよく懇願されたため諦めたのである。
今にして思えば、立花家の唯一の男子としての面目が、やっとたったものかと思ったものだった。それからひと月が過ぎようとしていた頃、殺人犯捜査第六係受け持ちの管内で殺人事件が発生したのであった。被害者は40代女性、死後2~3日経過しているとの事で、死因は頸部圧迫による窒息死であった。神田川沿いの葦の生い茂る奥まった所に、仰向けに寝かされるようにして遺棄されていた所を、早朝ジョギングの女性が発見したのである。現場には、争った跡が見られず、他の場所で事件に巻き込まれたあと、ここに遺棄されたのであろうとの検証結果であった。遺留品は、身に着けていた上品なブルー色のスーツスタイルショートタイトワンピースで、胸元には高価そうな猫のブローチがこちらをじっと見つめるかのように付けられていた。
鑑定によると、24金製でデザインされた猫の周りを白金で被い、目にあたる部分には、キャッツアイと言う希少な宝石が象嵌されていた。上司「かなり凝った作りのようだな」立花 学「ええ、それに何かを訴えているかのような目をしていますね」上司「真実を知っているとでも言わんばかりだな、しかし犯人は何故これを奪ってはいかなかったのか、不思議と言えば不思議な事だな」立花 学「物取りではなく、怨恨でしょうか」上司「怨恨にしては、遺体にはそれほど目立った外傷もなかったようだし」上司「それに第一発見者の女性によると、あそこは普段からのジョギングコースで、前日、前々日と通った折には全く気づかずに、当日は久しぶりの晴天で、日の出の光を背中に浴びながら走っていた所、河原の藪の中から何かきらきらと輝くものを発見したと言う事でね」立花 学「では、犯人は見つけられることを望んでいたと・・・」上司「うーん、犯人の心理のほどはまだよくは分からないが、何かこの猫のブローチがキャスティングボートを握っているのかもしれないな」立花 学「科捜研からの鑑定結果では、このブローチは国内での販売実績はなく、インターポールからの紹介によりますと、ユーロ域内で制作されたものではないかとの事でした。またこの様な特殊なジュエリーは、高い技量をもった個人の職人の手によるものだそうで、把握するまでには、かなりの時間がかかるものかと」立花 学「また、衣服には猫の毛の様なものが付着していたそうですが、科捜研の分析技術をもってしても、判別が難しいとの報告でした」上司「うーん、家で飼っていたものか、それとも現場付近にいる野良猫の毛が付着したものか、もっと詳しく調べられればなぁ」立花 学「科警研で調べて貰ったらいかがでしょうか」上司「しかし、あそこは警察庁管轄の研究機関だから、直ぐにとはいかんだろう」立花 学「それが、法科学第一部の生物第一研究室に知人の技官が在籍しておりますので、事の次第を話して見ようかと」上司「凄い知り合いがいるじゃないか、じゃあ、とにかくよろしく頼むよ」と言って上司は会議室を後にしたのだが、いくら捜査のためとはいえ、由紀の意向も確かめずに勝手にこのような話を進めてしまったことに対し内心、後悔してしまった。
作品名:カケイケンの由紀 作家名:森 明彦