慈雨と甘雨 7
それから次男蟻はそれの底に残っていた雨水をなめ、水のおいしさを感じながら目を閉じた。もう太陽は沈んだ。おそらくこの向こうのあの黄色いものも暗闇に染められ、これ以上進んでも姿が見えない。彼も同じ道を進んだなら同じようにするだろうな、と彼のことを思い出した。桜の花びらを見つめる彼は何とも自由でかっこよかった。
この何もかも未知な世界で何かをする指針に彼はなっていた。次男蟻は本に載っている知識なら負けない、そういうやつで、先駆者さえ見つかれば、それに従うことはむずかしいことではない。そしてそれが、次男蟻が生きていくのに必要で、必要かどうか考える余地すらない、不可欠なものだった。
背中の痛みは増していくがなんだか体が軽くなったように思う。今なら空も飛べる気がする!むしろ飛びたい!
経緯は違えど、彼も空を飛びたがっていた。空の青さにおぼれたかったのか、何なのか見当もつかないが、確かに彼は空を飛びたがっていた。そして次男蟻も同じ結論に至った。
もしかするとうみを目指したのも、同じような色をした空を飛びたいという隠れた欲求が導いたものなのかもしれない。夜、うみも同じように暗くなるのだろう。そしてその黒いうみに夜空の星が落下して、入水して、また空に返るためにうみの奥底へずいずい進んで……。そういう世界がこの世界のどこかにある。目の前の二つの透明なそれが昔話に出てきた鬼の角のような形になり、その向こうに見える夜空を縁取る。二つの角の間の夜空は星の光が一つきりあるだけで純粋な暗闇が広がっていた。
熱い。
暑い。
と目をゆっくり開くと次男蟻の体は細かい砂の上にあった。次男蟻と太陽の間には何もなく、容赦ない太陽光が砂と次男蟻に平等に当たっていた。季節は冬のはずだが、昨日と今日はやけに暑く、季節感が大きくずれていた。
冬迎祭はもうすぐ始まる。家の蟻たちは今頃大寒波などくるのかと不思議がっているだろう。しかし、こういう異変のあとの日常はそれまで以上に異常な日常に見えるのだ。おそらく大寒波とはそのことだろう。
砂はとても細かく、口の中にもほんの少し入り込んでいた。じゃりじゃりという感触が広がると急に今の状況がおかしいことに気が付いた。あの透明なそれ、はどこに行った、そもそも草は…。空白の時間がある。辺りを見渡すと砂の上に葉っぱや草が大量に、不自然に落ちている。夏のころの綺麗な緑はそこにはなく、砂の上でも妙にしっくりくるほど濁った色をしている。やがて風に吹かれ、風化し、砂の一部になるとこの光景が示している。
一方草は青々しい様子で、大地から引っこ抜かれたのか、根っこも見えるが、まだ生きているかのような力強さが色から伝わって来た。カラカラに乾いている砂からないはずの水と栄養を作り出し、強引に生きていく想像が生まれた。
季節外れの太陽に熱せられた砂のベッドから起き上がると一面がぐるっと見渡せた。周りに何らかの障害物はなく、その見覚えのない景色の中で孤独な存在のまま立っていた。
砂はどうやら正方形に囲まれた小さな場所だけのもので、赤い石によって四辺を囲まれていた。
ゆっくりとその赤い四辺の一辺に向かって歩き、何とかたどり着くと、その赤い石は太陽が乗り移ったかのように熱かった。足をつけた瞬間に背中の爛れた火傷の痛みと似たものが現れ、咄嗟にそばにあった次男蟻の体と同じ大きさの葉っぱをその赤い石に敷き、その上を歩いた。
砂の外側には何やら巨大なものが三つあり、それぞれ、黄色、青、赤の色をしていた。青と赤のものは、次男蟻の体と比較と、その大きさがわからないほど巨大で、あの家があった木と同じくらいの大きさだと推測した。
その二つのものよりも巨大だったのが、黄色いものだった。その黄色いものは山のようになっていて、中央の天辺から左右に垂れ下がるように地面に着地する二つの黄色。木の枝より太く、幹から幹が垂れ下がっているかのように思えるほど巨大なものだった。
次男蟻は赤い石に敷いた葉っぱから足を外し、その黄色いものに向かって歩いた。途中、綺麗な花が整列したように咲いていたが、そばに刺さっていた大きな白いものが恐ろしく思え、少し距離をとって黄色いものを目指した。距離が離れると、その白いものに何か文字が書かれていた。意味は分からない。
ホウセンカ
黄色いものに近づくと、その大きさがさらに大きく思え、黒い体を余裕で隠すそのものが作り出した影がさらに重圧感を増した。じっと黄色いものを見ていると、こちら側に倒れてくるのではないかと、思えてくるほどだった。
この黄色いものが一体何なのか、次男蟻は知るはずもなく、これが生物なのか、あの草むらにあった透明なものとおなじ無生物なのか、黒い大地に架かった橋と同じ次男蟻の空想なのか、どれが真実かはわからない。
黄色いものの影に包まれ、次男蟻の体と地面が一体化していくのが冷えていく体温と共にわかり始めた時、かなり大きい音が聞こえた。次男蟻の小さな体相応の小さな耳に響く音は黄色いものの向こう側から聞こえているようで、その音の振動が、黄色が作った影を微かに揺らしていた。本で読んだ知識の中に音は波で伝わるとあった。音はみえないのに、何を証拠にそんなことがわかるのか、今となって影がその証明となった。音は波となってつたわる。
「影が揺れたということは、音がやってきたということ。音は向こうから…」
次男蟻は微かに揺れる影の輪郭まで歩き、そこから黄色いものの向こうを見た。今更だが、黄色いものの中央はぽかっとおおきく空白が開いていて、そこから次男蟻は向こう側を見た。黄色いものが頭上に聳え、向こう側からの音を直に感じた。
その音は何かが擦れ合うようなもので、その大きさから相当大きなもの同士が擦れ合っているとわかる。黄色いものの空白から見える景色には草があったが、その前に何か、四角いものたちが連結して広がっていた。その四角いものはどうやら枠のようで、草が三本ほど通れるくらいの隙間を空けていた。そういう四角い枠が無数に広がり、草がそれ以上次男蟻側にやってこないようにふさいでいるように見えた。
四角い枠からはみ出すように草がいくつか顔を出しているが、そのどれもが押し出されたような恰好をしており、次男蟻が知っている草の様子とは大きく異なり、虐げられた草の表面はカラカラに乾いていた。太陽の反射がその乾き具合を強調させ、草の緑に含まれる水分を全て奪い去るかのような色彩になっていた。
次男蟻は草の様子を黄色いものに隠れるようにしながら見ていたのだが、だいぶ長いこと見ていたのか、黄色いものが作っていた影はだいぶ小さくなり、すぐ後ろまで冬に似つかわしくない激しい日光が迫っていた。その激しい日光に照らされることは別段嫌ではなく、それよりも、先ほどの影をも揺らす爆音の正体を知りたかった。
音の正体は一向に現れず、ただ同じ草の風景が見えていた。突然、背中に痛みを感じると、次男蟻の黒い背中が太陽に照らされ、爛れた表面をじっくり焼くようにじりじりと熱くなっていることに気づいた。
この何もかも未知な世界で何かをする指針に彼はなっていた。次男蟻は本に載っている知識なら負けない、そういうやつで、先駆者さえ見つかれば、それに従うことはむずかしいことではない。そしてそれが、次男蟻が生きていくのに必要で、必要かどうか考える余地すらない、不可欠なものだった。
背中の痛みは増していくがなんだか体が軽くなったように思う。今なら空も飛べる気がする!むしろ飛びたい!
経緯は違えど、彼も空を飛びたがっていた。空の青さにおぼれたかったのか、何なのか見当もつかないが、確かに彼は空を飛びたがっていた。そして次男蟻も同じ結論に至った。
もしかするとうみを目指したのも、同じような色をした空を飛びたいという隠れた欲求が導いたものなのかもしれない。夜、うみも同じように暗くなるのだろう。そしてその黒いうみに夜空の星が落下して、入水して、また空に返るためにうみの奥底へずいずい進んで……。そういう世界がこの世界のどこかにある。目の前の二つの透明なそれが昔話に出てきた鬼の角のような形になり、その向こうに見える夜空を縁取る。二つの角の間の夜空は星の光が一つきりあるだけで純粋な暗闇が広がっていた。
熱い。
暑い。
と目をゆっくり開くと次男蟻の体は細かい砂の上にあった。次男蟻と太陽の間には何もなく、容赦ない太陽光が砂と次男蟻に平等に当たっていた。季節は冬のはずだが、昨日と今日はやけに暑く、季節感が大きくずれていた。
冬迎祭はもうすぐ始まる。家の蟻たちは今頃大寒波などくるのかと不思議がっているだろう。しかし、こういう異変のあとの日常はそれまで以上に異常な日常に見えるのだ。おそらく大寒波とはそのことだろう。
砂はとても細かく、口の中にもほんの少し入り込んでいた。じゃりじゃりという感触が広がると急に今の状況がおかしいことに気が付いた。あの透明なそれ、はどこに行った、そもそも草は…。空白の時間がある。辺りを見渡すと砂の上に葉っぱや草が大量に、不自然に落ちている。夏のころの綺麗な緑はそこにはなく、砂の上でも妙にしっくりくるほど濁った色をしている。やがて風に吹かれ、風化し、砂の一部になるとこの光景が示している。
一方草は青々しい様子で、大地から引っこ抜かれたのか、根っこも見えるが、まだ生きているかのような力強さが色から伝わって来た。カラカラに乾いている砂からないはずの水と栄養を作り出し、強引に生きていく想像が生まれた。
季節外れの太陽に熱せられた砂のベッドから起き上がると一面がぐるっと見渡せた。周りに何らかの障害物はなく、その見覚えのない景色の中で孤独な存在のまま立っていた。
砂はどうやら正方形に囲まれた小さな場所だけのもので、赤い石によって四辺を囲まれていた。
ゆっくりとその赤い四辺の一辺に向かって歩き、何とかたどり着くと、その赤い石は太陽が乗り移ったかのように熱かった。足をつけた瞬間に背中の爛れた火傷の痛みと似たものが現れ、咄嗟にそばにあった次男蟻の体と同じ大きさの葉っぱをその赤い石に敷き、その上を歩いた。
砂の外側には何やら巨大なものが三つあり、それぞれ、黄色、青、赤の色をしていた。青と赤のものは、次男蟻の体と比較と、その大きさがわからないほど巨大で、あの家があった木と同じくらいの大きさだと推測した。
その二つのものよりも巨大だったのが、黄色いものだった。その黄色いものは山のようになっていて、中央の天辺から左右に垂れ下がるように地面に着地する二つの黄色。木の枝より太く、幹から幹が垂れ下がっているかのように思えるほど巨大なものだった。
次男蟻は赤い石に敷いた葉っぱから足を外し、その黄色いものに向かって歩いた。途中、綺麗な花が整列したように咲いていたが、そばに刺さっていた大きな白いものが恐ろしく思え、少し距離をとって黄色いものを目指した。距離が離れると、その白いものに何か文字が書かれていた。意味は分からない。
ホウセンカ
黄色いものに近づくと、その大きさがさらに大きく思え、黒い体を余裕で隠すそのものが作り出した影がさらに重圧感を増した。じっと黄色いものを見ていると、こちら側に倒れてくるのではないかと、思えてくるほどだった。
この黄色いものが一体何なのか、次男蟻は知るはずもなく、これが生物なのか、あの草むらにあった透明なものとおなじ無生物なのか、黒い大地に架かった橋と同じ次男蟻の空想なのか、どれが真実かはわからない。
黄色いものの影に包まれ、次男蟻の体と地面が一体化していくのが冷えていく体温と共にわかり始めた時、かなり大きい音が聞こえた。次男蟻の小さな体相応の小さな耳に響く音は黄色いものの向こう側から聞こえているようで、その音の振動が、黄色が作った影を微かに揺らしていた。本で読んだ知識の中に音は波で伝わるとあった。音はみえないのに、何を証拠にそんなことがわかるのか、今となって影がその証明となった。音は波となってつたわる。
「影が揺れたということは、音がやってきたということ。音は向こうから…」
次男蟻は微かに揺れる影の輪郭まで歩き、そこから黄色いものの向こうを見た。今更だが、黄色いものの中央はぽかっとおおきく空白が開いていて、そこから次男蟻は向こう側を見た。黄色いものが頭上に聳え、向こう側からの音を直に感じた。
その音は何かが擦れ合うようなもので、その大きさから相当大きなもの同士が擦れ合っているとわかる。黄色いものの空白から見える景色には草があったが、その前に何か、四角いものたちが連結して広がっていた。その四角いものはどうやら枠のようで、草が三本ほど通れるくらいの隙間を空けていた。そういう四角い枠が無数に広がり、草がそれ以上次男蟻側にやってこないようにふさいでいるように見えた。
四角い枠からはみ出すように草がいくつか顔を出しているが、そのどれもが押し出されたような恰好をしており、次男蟻が知っている草の様子とは大きく異なり、虐げられた草の表面はカラカラに乾いていた。太陽の反射がその乾き具合を強調させ、草の緑に含まれる水分を全て奪い去るかのような色彩になっていた。
次男蟻は草の様子を黄色いものに隠れるようにしながら見ていたのだが、だいぶ長いこと見ていたのか、黄色いものが作っていた影はだいぶ小さくなり、すぐ後ろまで冬に似つかわしくない激しい日光が迫っていた。その激しい日光に照らされることは別段嫌ではなく、それよりも、先ほどの影をも揺らす爆音の正体を知りたかった。
音の正体は一向に現れず、ただ同じ草の風景が見えていた。突然、背中に痛みを感じると、次男蟻の黒い背中が太陽に照らされ、爛れた表面をじっくり焼くようにじりじりと熱くなっていることに気づいた。