慈雨と甘雨 6
白い大地が確かに存在していることを理解し、痛む背中を放置してぐっと立った。視点が高くなったのにもかかわらず、広がるのは白い大地で、その果てには確かに木や草が見えるのだが、そこへたどり着くまでの道のりはただただ白が続いている。
「彼はどの方角に向かったんだろう」
同じ白が続く道を区別することはかなり難しく、次男蟻は次の行動にかなり迷った。そう言えば彼は赤い花の向こうには雨景色より白い、固い道があると言っていた。この道を彼も通ったのかもしれない。途中でおうのむらを通過したかは分からないが、彼がこの白い道を踏んだことは確かだろう。
しかし、彼の言葉の中に黒い道はなかった。どちらに進むかはやはり自分の意思に従うしかないようだと次男蟻は適当に太陽があるほうに進んだ。背中が痛くならないように。
次男蟻の黒い顔に突き刺さる太陽の熱量が気持ち程度弱まり、太陽が白い道へとぐいぐい引き込まれていた。次男蟻は白い大地の上をひたすら進んでいたのだが、どこに向かっているのかわからないその進行方向に見える太陽の姿がただただ大きく感じられいつの間にか太陽に向かって進めばいいという結論に至っていた。決められたレールが一切存在しないこの白い道を歩いているとこの道がやはり凸凹であることがわかる。細かい凸凹が足元から伝わるたびに一歩進んだことの証明がされているように思え、次男蟻は誰からのものでもない賞賛を浴びている気分に浸っていた。
どれだけ進んだかわからないが白い道は終わらず、四方八方同じ景色が続いていた。その様子は貴重な白い紙をふんだんに顔に巻き付け、そのままぐるぐる回るときに見えるだろう視界に似ている。ただただ白が視界に広がるその光景を異様に思わず、恐怖感を抱かないのは紙というものが貴重でそんな貴重なものを無駄遣いしているという妄想から優越感にでも浸っているからだろうか。
きょろきょろ辺りを見渡しながら歩いていたからかいつの間にか進行方向に白い道が無くなっていた。代わりに風に飛ばされる前に見た黒い大地がその先に続いていた。白い大地の終わりは何ともあっけなく、黒い大地と隣接し、明確な区切りがそこにあるかと思えば白い大地にあった凸凹の凸の部分の一つが半分だけ白く染まっていたり…、となんとも不思議な色の境界線がそこにあった。
その黒と白の境界線を見ているとふとうみを思い出した。うみは塩水で青いらしい。それではその境界線を挟んだ反対側は何色で、どんな場所なのだろうか。見たことのない、青が延々と続くと想像するうみとの境界線に立ち、左目でうみを、右目で別のなにかを見る。純粋なうみを楽しんだ後にそういうことをやっても楽しいかもしれない。そしてきっとその光景を見て涙を流す。見たことのないものから生じる感動と、塩が混じった風が目を刺激するだろう。
もしくはうみの青は空の青との境界を曖昧にし、次男蟻が立っているその場所に青い雨を降らし、ついには大地とうみと空の境界線をなくすかもしれない。うみが水の集合体なら雨に流されごろごろとうみに放り出され、体の穴という穴から侵食してきた水の色を眼球の内側を通して知覚できるかもしれない。呼吸はうまくできないだろうが、そういう環境の中でうみを見ればそれだけ特別な視点を得られるかもしれない。
今、目の前にある黒と白の境界線からうみの妄想は広がった。背中の火傷に塩水がひどく沁みることは考えない。妄想に不都合なものは必要ない。
水が体内に入り込み、呼吸が苦しくなる妄想を繰り広げても太陽に照らされる次男蟻の呼吸は一切乱れることなく続いている。無意識に閉じた両目をゆっくり開き、眼下にある黒と白の境界線をまじまじと見つめる。
この黒い大地は先ほどの黒い大地と繋がっている、いないどちらかわからないが、太陽が反射して見る角度の差によって生じる凹凸の様子は、形は違うが同じ性質を持ったものに思えた。そういうわけでこの黒い大地が、大地ではなく、崖であるという仮定がまた現れた。草からの落下ではなく、どこか安定した雰囲気を醸し出していた白い大地からの落下。見つめる境界線から同じ台地が続くことが予想されるが、届かない一歩先の風景には道が転がっていることは赤い花から教訓のように学んでいた。風が吹けばいいのに。
境界線に気づく前は意識せずにただ続く白い道を進んでいたため、境界線付近から見える太陽の色の変化に気づかず、次男蟻の体がほんの少し太陽の暖かい色に侵食されていることにも気づかずにいた。次男蟻は見つめていた境界線の白の方がほんの少し赤くなったことで太陽が夕日に変わる瞬間に気づいた。白の変化はなんとも緩やかだったが、その緩やかな変化のせいか、ほんの少しのはずの太陽の色が、太陽丸まる一個包み込んでその色を内側から透過させているかのように見えた。一方黒は確かに変わっているが白の変化によってはじめてその変化に気が付いた。次男蟻の目にとって白の方が知覚しやすいということなのかもしれないが、それ以上に白が持つ余裕のようなものが太陽をそのまま吸収しているという妄想がなんとも壮大で面白く思えたという後の思いから白を気に入ったというのが大きいだろう。
黒い大地が続くその表面に太陽からやってきた光線がさっと数本走り、一面黒のはずの大地に橋のようなものが架かった。その橋の終わりはあの太陽で、空中と大地がくっつく、空間が捻じ曲がるような感覚が現実の風景に投影されている。
黒い大地は崖であり、それも底が見えないほど黒く染まった崖だという妄想に架かったオレンジ色の橋の一つに乗っかり、太陽に向かって歩いた。橋は思ったより広く、次男蟻の小さな体はすっぽりと収まった。すぐそばに深い底がある。落ちれば体のいたるところが分裂し、粉々になった体を、瞬間的な破裂によって生き永らえた目によって視覚するだろう。そんな一瞬の悲劇だが次男蟻にはかなりの恐怖を運んできた。体に当たる横風が本当に強く体を揺らし、まだ余裕のあるはずの橋の幅が極端に心もとないものに思えていく。ふらっと揺られ転落しないよう、次男蟻は力を足に込めた。
そうしてオレンジ色の橋を進んでいくと面白いことに橋が同じ幅を保ったままの状態で次男蟻の足元にあった。白と黒の境界線から見えた橋は太陽に向かって細くなっていて、意識していなかったがいつかは橋から飛び降りなくてはならないのではないかという覚悟が橋の下の崖を想像させたのだと思っていた。